●●ちゃぶ台から世界をひっくり返す●●

〜ちゃぶ台アーティストasami〜

すべてのものはメッセージ~♪

ここ数週間
歯医者に通って
せっせと歯の治療をしている*



きのうは
詰め物をしてもらい
それの噛み合わせを
合わせるのに

先生と助手の方、
わたしとでその高さを合わせるのに超微調整しているのが
なんだかこの世界で

という

いのちの型を知っていくのと同じようでなんだか
おもしろかった。


髪の毛
一本、二本分とかの
超微妙な
加減を削っていて
それだけでも
全く噛み合わせの
感覚は変わってくるそう。


しかも、
口の中は
手よりもその感覚が
繊細らしい。




虫歯なんて
ならないほうが
よいけれど


虫歯になって
それを削ったり
抜いたりすることが
それまでの*じぶん*が
死ぬことなら


ほんとうの願い、
じぶんを
生きていくためには
その願いや
ほんとうの*じぶん*
を知っていくことがひつよう。

それが
あたらしく
はいる詰め物。笑



まずは
そこの型がひつよう。


どのくらいの
深さ?大きさ?形?なのか。





全くじぶんじしんがわからない、
なにが好きか嫌いかも
わからない状態でも


ちいさな頃の
歓びをおもいだしていくことや



とりあえず
目の前に
あることに
飛び込んでみることや
起こった出来事に
対してじぶんの中に
うまれる感情やその奥底にある願いを見てみるとすこしずつ浮き彫りになってくる



このとき
新たな型に気づいていくと
(虫歯のときの)
じぶんの型はこれだ!
とおもっていたものと
全く正反対!
みたいなことが
起きたりするから面白い。




わたしは
昔は
じぶんを犠牲にしてでも
他人に尽くすことが
じぶんの在り方。


だと
思い込んでいた。


人のために
人のことをする。

人に尽くすことことそが
じぶん。だとおもっていたのだけど



なんと
真正反対?!



いまの
わたしの在り方の
根底は

わたしがわたしを

生きたらすべての
為になる*というスタンス。



誰かのためになにかする。
というのでなく
じぶんを生きることことそが誰かの、みんなの為になっていく。


これは
その人ひとりひとりの型というより、すべての人の生きる上での根底だとおもっている。



親からの影響や
教育、生きていくなかで
そもそもの型とは
全く違うものを
いれようとしてしまっていたのかもしれない。


そりゃあ、
形が違ければ
はいらなかったり
隙間があって
虫歯になってしまう..。





そうして
じぶんの型がとれて
あたらしくはいる
詰め物(じぶん)の形もわかってくる。


そうしたら
実際に詰めてみる。


窮屈さ
高さ噛み合わせを
調整していく。



ここ数年、

というものの

本質がわかった!!

とおもったら


あら、また分からなくなった。そしてわかった!

の繰り返しで
今おもうと
あのときのじぶんは
じぶんをわかった気になっていたけど
まだまだ知らなかったなあ。


と常々おもうように


やっぱり

を知り

探求していくことに
終わりはないのだろう。



だけれど、
歯の高さが
整って
よくものを噛める。


じぶんの傷を癒し
マイナスから
ゼロのフラットなところになり
そこからさらに
世界にじぶんを活かしていく。


その
フラット、ゼロに
整える
ある程度のラインがあると
わたしはおもっている。



世界に
じぶんを表現しながら
世界からの
反応やじぶんの中にうまれる感情を感じながら
さらに細かくじぶんを知っていく。




あの、
歯の
高さを整えるのに
赤い紙を噛むのもそうだなあ。とおもって。笑



その赤さが
高さがある
歯の部分に
ついて
それを先生と
助手の方が
見ながら削っていく。


わたしは
どんな感じか
感覚を伝えていく。




世界は
じぶんの中の
すべてをうつしたものだから

歯が赤くなることイコール

はい、ここいらないですよー。ここもっと削りましょう~。

と世界の現象が
他人がすべてを教えてくれる。
そして、じぶんの世界に対する反応もすべてを教えてくれている。



じぶんだけで
じぶんを知っていくのではない。


すべてがじぶん。
すべてがじぶんがなにものかを教えてくれるメッセージ。


いや、じぶんじしんが
すべてをつかって
じぶんを知るためのメッセージを世界中に散りばめている。



気づくのは
いつだってじぶん。






なんか、ものすごく
わかりづらそうだけど
歯医者さんにいって


じぶんを生き
じぶんを知り
じぶんを形づくる行為と
一緒だなあ。とおもしろかった。というはなし。





*


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あたりまえをひきはがす

じぶんのなかにある

あたりまえ**すぎる

感覚をじぶんから
えいっ!と引き剥がして
客観的にそれを
見つめてあげること。



が、
さいきんの
テーマだったわたし。


あまりにも
あたりまえすぎるものって
じぶんと一体となっているから
ある意味じぶんの中に

のか分からなくなってしまう。


し、
引き剥がしてみたところで
じぶんにとっては
ごくごく自然なことなので
なんの特別なことでも
ないとおもってしまうのだけれど、実はそれがその人の
ものすごいチカラだったりする。...のかもしれない。
(←すこしずつ感じてるこれを圧倒的に感じたい)



これが
テーマ。といいながら
それをなかなか見つめることができずにいたのだけど




数日前

わたしの中に(人に対しての)愛はあるのだろうか?**

と強烈に
じぶんに対して
疑問をもってしまう
瞬間があり 
じぶんの中を覗きこんでみた。





愛なんてまだまだ
わからないし
語れなんてしないのだけど


そのとき
感じたのが




じぶんの中に*在る*誰かへの愛も

じぶんの中から外にだし相手へ*表現*することもどっちも愛だな。

ということ。





前は目に見えての動きがない。
でも確実にそこにある。


後者は言葉や行動、形として表現されるので分かりやすい。
人から見ても、受けとる側もわかりやすい。




わたしは
圧倒的に前者の愛の
表現(実際はされていない) を
用いていることに気がついた。


そして、
後者の表現は
多くはごはんに乗せているのだけど、それ以外の方法でわたしの外にそれらがでたがっているのを感じる。


たぶん、
そのじぶんが
これからよりしたい
方法での表現をじぶんが
できていないから
じぶんの中に*愛がない*と感じてしまった。

のと

じぶんの中に
あたりまえに在る愛を
じぶんがちゃんと
見つけて、認めてあげられてなかったのだ。



パートナーとみひでに
わたしの中に愛あるとおもう?
どんな愛だとおもう?
わたしはこうおもってるのだけど。


と聞くと


少なくとも
麻美の周りにいる
大切な人はあるとおもってるとおもうよ。


そして
わたしの愛のカタチをこんな風に表現してくれた。

そこにないとおもうくらい、自然とそこに在る絶対的な愛**



うん。うん。
わたしのなかに、
ちゃんとあった!!じゃん。


そして、
やっぱり

がつくのね。笑


  


じぶんの中に
ちゃんと*在る*ことを
認めてあげたら
それがいろいろなカタチで
わたしの外にでたがってきた。

表現されたがっている。



そっか、

ことを認めてあげたら
しぜんと溢れてくるのかあ。


ちゃんと知ってる、
この溢れてくる感覚。



わたしは
基本的に昔から
じぶんのことを
冷たい人間だと
思い込んできたので
気がつくとそこに
じぶんを置いてしまう。



そうしたら
じぶんの中にある
あたたかさも
認めてもらえなくて
そりゃあいじけてしまうわ。



ちゃんといるね。って見つけてあげたらはりきって溢れだす。






この溢れたものを
みんなと分かち合うことを今までと違う方法で感じたいじぶんがいる。



ごはんではたくさんやってきた。




違う方法..
じぶんが嫌だなあ。とおもってきたことだから嫌なんだけど、これ。とわかっている。


嫌なことばかりで嫌だなあ。笑







だしたい、今。



すべてのいのちとパートナーシップを結ぶ覚悟と共に
だします、今。

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じぶんを信じる

じぶんを信じる

 

 

 

きのう、
友人との対話のなかで
過去のじぶんに対して
これまでになかった
新たな視点での気づきがあった。

 

 


以前にも
書いたが
実はわたしは
食卓を囲むことが
苦手で
過去、給食のじかんが
大嫌いだった。

 

 

 

 

ずーっと黙り込んで
ひたすら
食べることだけに
集中。

 

 

 

基本的に
人が怖くて
じぶんというものを
中高と続けた陸上以外では
全くだせていなかった当時。

 

 

 

 

 

実は
ごはんを食すという行為、
共に食卓を囲む行為が

**心が開く**


ことを
無意識に知っていたのでは?
と気がついた。

 

 

 

 


だから
*じぶん*に自信がなくて
出すことが恐怖だったわたしは
じぶんの心が開いてしまう
そのトキを怖がっていた。

 

 

 

 

知っていたんだ。

ごはんのチカラを
食卓のチカラを
いのちのチカラを

 

 

 

 

 

 

だからこそ
怖かったし

誰よりも
いのちを開いた
じぶんで繋がることを求めている。

 

 

 

 

 

 

 


わたしは
長い間
じぶんに自信がなく
基本的にじぶんは人に嫌われている。と
おもって生きてきた。

 

 

 


この数年で
周りの大切な人たちの
お陰もあって

じぶんへの信頼を
積み重ねてきたけれど

 

 

 

 

もっともっと
じぶんを信じられると。

まだまだじぶんを
すべてを信頼できる。

 

 


この深さに
生きている間きっと終わりはなく
どこまでもいけるのだろうけれど。

 

 

 

 

 

 

時折
じぶんの存在や
じぶんのしていることや
それと世界の繋がりを
信じられていないじぶんがいることに気づくのだけど
今回もそうだった。

 

 

 


今回の気づきによって
わたしがいちばん

じぶんのごはんを舐めていた。
食卓のチカラを舐めていた。と気づかされた。

 


 


5月のはじめに
楽天ヤンキース田中将大投手の特集を
テレビで観て受け取ったメッセージ

 

*じぶんを信じてフルスイング*

 

 

 

…フルスイングかあ〜〜笑

 

もうひとつ深く
じぶんじしんを信じること

 

 


そしてフルスイングが求められている、今。

 

 

 

 

 

 

…どきどき。

 

 

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愛されたい、すべてに愛し尽くされたい



きょうは、ゆったりとした1日を過ごして
仲間と語っていたのだけど

気がついたらその部屋がギターの生演奏にて
そこにいたそれぞれの好きな歌のメドレーがはじまっていた。



ひとりひとりが
じぶんで在りながら歌っている姿は
見ていて喜びに溢れていて
とても心地よくて
時々わかる歌がでると口ずさみながら楽しんだ。



歌は
聞いていた頃の感情がわーーーっと
溢れてきてその頃にタイムスリップするから不思議だ。






ミスチルの**しるし**が流れはじめる。ー


この歌は確かレコード大賞を獲ったときに
テレビを観ていて、その圧倒的な何かにものすごく感動した記憶がある。




そして歌詞も大好きだった。





ー色んな角度から君を見てきた
そのどれもが素晴らしくて僕は愛を思い知るんだー





人から、あなたってこうだよね。と決めつけられるのが嫌いで
無意識に周りが思うそれを生きてきてしまっていたわたしは


人には色んな側面があって、今目の前に感じるあなたは
そのひとつでしかなくて、どのあなたもすべてのあなたを受け止め愛そう。
と思ってきたけれど



実はじぶんがいちばんそれを望んでいた。



どんなじぶんも、どうであっても
じぶんのまんま
ただただ愛されたかった。




そんな、
コトバにもしたことのなかった想いが溢れてきた。





愛されたいー
ずっとずっと願ってきたその想いは
この6年間で知らぬ間に消えていた。



それは
すでにそこに愛があったと知ったから。
すでにもう十分過ぎるほど実は愛されていたんだ。と知ったから。
そして、愛されていいんだ。と分かったから。





ー愛されたいー


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そう描いてみたけれど



昔のようにないものを求めているのではなく
逆に、満ち溢れているような感覚がそこにはある




あのトキのじぶんが
またひとつ、姿を変えてやってきて
わたしじしんになった




すべてを愛し尽くしたい。
そうおもうことはあるけれど
すべてから愛し尽くされるーー



すでにたくさん愛されているのだけれど
それをもっともっと、受け取れる。とおもった




受け取ってやろうじゃあないか。

愛し尽くされてしまおうじゃあないか。と







物語〜序章その4

 

児童養護施設に調理員として就職して1ヶ月も経たないうちに
じぶんの想いとの違和感を感じ始めた。


親と様々な理由があって暮らすことのできない
子どもたたちに愛をもってごはんを作りたい。と
思って働き始めたが、じぶんが作りたい理想のごはんとはかけ離れていた。


できるだけ自然な食事をじぶんじしんも食べたいし食べて欲しいと思って
いたわたしにとって、冷凍食品や添加物をつかうのは当たり前
野菜もきっと農薬がたっぷりかかったであろうものを使わなくちゃいけない
現実を目の当たりにして愕然とした。

 


でも、世界一周のためのお金も貯めたいし…


子どもたちへあたたかなごはんを届けたい。という想いは根底にあったので
この施設のなかでできることをやってみようと決めた。


施設では、2歳から18歳の子どもたちが100人弱が暮らしていて
その子どもたちと子どもをみている職員さんの食事をつくる。

 


朝は全員食堂で食べて、学校や幼稚園のある子たちはその給食やときに
お弁当をつくってもたせる。夜は家族のようなユニットになっている部屋に
作ったものを届ける。


この施設で生活しているので基本的な食事は
わたしたち調理員のつくるごはんとなるので
子どもたちのカラダをつくる上で重要なのは言うまでもない。


わたしたち調理員は、栄養士さんの作った献立に沿ってごはんをつくっていく。
日々のごはんなので、専門的な凝った料理というより
家庭料理でだすようなものがほとんど。


献立表に使う食材や調味料が記してあって
それを実際の形にしていく。


栄養士さんがとても寛容で素敵な方で
みんなそれぞれの味があると思うから
(一応調味料の分量なども載っているのだが)
最終的な味付けは3人いる調理員さんそれぞれに任せる。と言ってくれていた。

 

なるべく、子ども達のカラダに安心なものを使いたい。と
伝えるも栄養士さんもその想いは山々だが
予算や、仕入れ先が何十年も付き合いがあって
じぶんのチカラだけでは変えられない。と言われてしまった。


他の昔からいる職員の方にも探りをいれたが
どうやら使うもの自体を変えるというのは難しそうだ。

 

それならば
あるものでできるだけやってみようとあれこれ工夫をはじめた。

具材の多い汁ものは野菜を重ね煮して野菜の旨味や水分を出してみたり
甘さがほしい料理のときは玉ねぎをじっくり炒め煮や水煮して砂糖や添加物をつかう量を減らした。


それでも、他の調理員の人は
気にせず調理していてそれを子どもたちも美味しい!
と言っていたので意味があったのか、
わたしのただの気休めでしかなかったのかもしれないけれど
じぶんなりにできることをやっていった。

 

このとき、中高校生の子どもたちに
おむすびを毎日のように結んでいたが
食べ盛りの男の子たちだし!と
張り切って特大のおむすびを結んでいたが
さすがに大き過ぎて食べられない。とクレームがきた。笑

 

あのときのでっかなおむすびの感覚もけっこう好きだ。


このとき、パートできていた
おばちゃんに塩を手につけるにでなく混ぜ込むといい。
と教えてもらい、確かに全体に馴染んでいい。というところから
わたしはごはんに塩を混ぜ込むスタイルを続けている。

 

そんな風に限られた枠のなかで
できる限りのことはしていたが
すぐに、もっと自由にじぶんの作りたいごはんを表現したい。
と思うようになった。

 

仙台市内でなにかいいところはないか調べていると
シェアカフェという、キッチン付きのレンタルスペースを見つけた。

ここだ!と思い
当時、やってみたいと思っていた
**おむすびカフェ**の構想をもって早速連絡をもって出掛けた。


有難いことに、ただ貸すだけというより
わたしの想いや現状をいろいろと聞いてくれて
当時、学生時代に過ごした友達しかいなかったわたしに
集客もすぐには難しいだろうから、すでに常連となってそこを借りて
週替わりシェフみたいにいろんな人にごはんを作ってもらってる人がいるから
その人と繋がったらいいよ。と言ってくれた。


そうして、トントン拍子に話は進み
もう忘れてしまったけれど
毎月第何曜日かにわたしのごはんを作らせてもらえることとなった。



それと同時に
学生時代の友達だけじゃあなくて
一緒に夢に向かったり何か素敵なことをできる仲間が欲しいと思いはじめていた。


埼玉に住んでいたときに東京で出逢った
Earth dayやマルシェなどが大好きでそれを仙台でも
Smileartday〜地球みーーんなが笑顔〜として開催したいという
想いが膨らみ、その仲間になってくれる人も集めたいと思っていた。

 

マクロビの料理教室で出逢った人や
気になるお店に出掛けて
繋がりをもち、想いを伝えた。

 

みんな、驚くほどに共感してくれて
自分のスナオな想いを伝えることが怖かったわたしにとって
これは貴重な体験となった。

 

ー想いをもって伝えれば、共感してくれる人が現れるんだ。

 



妹に誕生日にもらった本を書いた人に会ってみたい。と
思いながらタイミングがなかった数年後のある日。

 

その本を描いた
てんつくマンが仙台で講演することを知り
これは行かねば。と主催する方のブログを見ていると
ボランティアスタッフを募集していた。


なんだか、熱くて素敵そうな人だし
みんなでひとつのイベントを創り上げるのは楽しそうだし
きっと、無料で講演も聞けちゃうだろうから、やってみよう。

 

ただ、すでにイベント当日は仕事が入っていた。


有休をつかっていい仕組みになっていたが、1年目だし
急だしどうなんだろう。。ーとドキドキしながら伝えるも
あっさりokをもらい、案外じぶんが思っているより
ほんとうはもっと自由で、じぶんの想いを伝えていいのだと思わせてもらった。

 


じぶんの想いを少しずつすこしずつ伝え
小さな一歩を踏み出したトキだった。

 


てんつくマンの講演会では
書き下ろしをしてもらえる時間もあって
そのときに書いてもらった言葉が衝撃的だった。

 

〜麻美は人に届けている愛、優しさをじぶんに向けてあげている?
大切な人を愛するように、じぶんじしんへも愛を〜


じぶんに愛を?
他人に対して愛をごはんにのせて届けること
優しさをもって接することはいつも考えていたけれど
じぶんに対してそれをする。という発想がわたしの中にはなかった。

 


涙が溢れてとまらなかった。

奥底でわたしがそれを求めていることが分かったけれど
それをどうしたらいいのか分からなくて
また、いつものじぶんに戻っていった。



そのトキに出逢ったメンバーは
素敵な人が多くて、そこから仙台での繋がりが広がりはじめた。


みんな、Smilearthdayにも共感してくれて
特にひとりの歳上の女性とは密に一緒に活動をはじめた。

 

その中に、この人素敵だな〜。と思う男の子がいて
数ヶ月後、付き合うこととなった。


彼は国際支援をする団体をつくって
国際パーティーなどを開いて精力的に活動をしていて
以前からそのイベントが気になっていたがタイミングを逃していた
わたしは、彼と付き合いはじめた直後にあった大きなイベント
クリスマスパーティーへ出掛けることにした。

 

そこで、現在のパートナー とみひでと出逢うことになる。


たくさんの人がいる場で、なんとなく
この人素敵だな。繋がりそうだな。と直感的に感じる人がいるのだけど、
そのトキの会でとみひではそうゆう存在で
会が終わりそうな頃、こちらに向かって歩いてきた。


**やっぱり**と思いながら話してみると、気が合いそうで素敵。

付き合いはじめた彼がいたにも関わらず、
不覚にも正直、*いいな*と思ってしまったのである。

 

連絡先を交換し数日後、お茶のお誘いがやってきた。

 

(後々知るのだけど、
このクリスマスパーティーでたくさんの人と
連絡先を交換したにも関わらず、メモリーがいっぱいで
交換した人のうちわたしの連絡先しか入っていなかったらしい。)


この人、わたしに気があるのかな?という期待ももちつつ
実は全くそうではなかったのだが。笑
付き合っていた彼に男の人と二人きりで会うのは嫌だ。
と言われていたにも関わらず
、男女関係なくフラットな関係を築きたいと思っていたわたしは出掛けてしまった。

 

とみひでとの時間は
初めて会った時に感じた**いいな**という想いをますます高めてしまった。
同じ想いや世界一周をしたいという共通の夢もある。

 

だけど、付き合っている彼もいるし。とその気持ちに気づかないフリをした。


彼が嬉しそうに話していた尊敬している。という人が
とみひでだったと後になって気づいて
それなら尚更、黙ってもいられない。と2人で会ったことを話すと、
彼はショックを受けたようでそれから一気に関係は冷め、
それから一ヶ月も経たないうちにあっという間に別れることとなった。


そのキッカケとなった
とみひでともケジメとして縁を切ろうと決め
誘いがきても断っていたら段々と連絡も少なくなり、自然と途絶えた。

 

そうこうしているうちに
多くの人の人生が大きく変わった、
わたしじしんの生き方も大きく動いた2011年3月11日が近づいていた。

 

物語〜序章その2〜

 


中学生になって、学校は相変わらず嫌いだったけれど
陸上部に入って毎日練習に明け暮れた。

 

 

中学高校時代は走る為に学校に行っていたと言っても過言ではないくらい
部活をしに学校に我慢して行っているようなものだった。

走るのは短距離も長距離もどちらも得意だったけれど
短距離をすることにした。

 

 

 

入ってそうそう
ただひたすらに何も考えずに走っただけだったけれど
仙台市の大会で優勝し県の大会でも4番になり東北大会まで進んだ。

 

 


けれど、一年生の夏は幼稚園を卒業してから
幼稚園がやっている英語を学ぶ習い事をしていて
(なのに英語は今話せない。。)
その集大成にアメリカに研修旅行という名のキャンプとホームステイにいくという大きなイベントがあった。


そもそも、幼稚園を卒業してから
6年間通わせてもらったわけだけど
こちらも学校と同様決して楽しくていっていたのではない。

 

 


おそらく、高い月謝を払っていてくれた両親には申し訳ないが
辞めたい。の一言が言えないがためににずっと我慢しながら通っていた。

 

 

 

だから、妹が一年やそこらで辞めたときは
根性ないなあ。と笑っていたけれど内心はものすごくうらやましかった。

嫌なものを嫌だ。という勇気がわたしにはなかったのだ。

 

 

 


そうして、アメリカ旅行も案の定行きたくなんて
少しもなかったけれど、6年間通ったら行くのが普通だったし
本当は陸上の東北大会に出たかったけれど、
出発数週間前にやっぱ辞める。と空気を読めないフリもできなかったので
行きたくもない研修旅行に多額のお金を払ってもらい出掛けたのであった。

 


…結果はみなさん、お察しの通り。。
ふふ♡

 

 

 


逆に好きなものを好き。とスナオに言えなかったエピソードもある。

小学6年生のときから好きな男の子がいてずっと想い続けていた。

こんなんだったのに告白しようとしたことも何度かあって
だけどできるはずもなく、ましてまともに話せない…。

 

 


そんな風に約2年間想い続けたある日、
その子の友達を通してわたしの元になんとラブレターがやってきたのである。

 

 

 

ぎゃーーーーー⁈!⁈⁈

わたしの恋をずっと応援してくれていた友達と大興奮。
実は、少し前にもう諦めようとその気持ちに蓋をしようとしていた。

 

 

 

 

どうするの?!

 

 

 

友達に聞かれて迷うわたし。
実はわたしが好きだった彼はけっこうに人気があって
学年でいちばん可愛いとわたしが思っていた女の子が彼を好きだという噂も聞いていた。

 

 

その子に目の敵にされたら。とか付き合っても何話したらいいんだろう。とか
一緒に帰ったりして誰かに見られたらどうしたらいいんだろう。なんて延々考えて
じぶんの想いなんか丸無視で周りの目が気にすぎて、じぶんに自信がなさすぎて怖くて断った。

 

 


なんて情けない。。
でも、当時のわたしにはそんな風にしか生きられなかった。

 

 

そんな中学生時代は陸上に出逢って本当に救われた。
目標を立てて練習に励めば、その努力は報われたし
3年生のときには100m、200mで全国大会出場した。


陸上に注いでいたあのたくさんのエネルギーがどこにも
発散できずにやり場がなかったと思ったらゾッとする。

 

 

走るときの風を切る感触が好きで
調子のいいときの試合でトラックを掛けた感覚は今でも忘れられない。

 

個人競技も好きだったけれど
実は、リレーや個人競技の順位に点数をつけて学校毎に競う"総合"も好きだった。

 

 


3年生の市の大会で男女での総合優勝を目指していたのだが、
人数の少ない私たちの学校は、みんながどれだけいい成績を出しても
マンモス校にどうやっても敵わず涙を飲んだ。

 

 

 


個人、リレーともに優勝していて
両親や担任の先生におめでとうと言われたが
全然、嬉しくなかった。

 

 

 

悔しくてくやしくて泣いた。
みんなで一緒に優勝したい。

 

 

 

そんな想いが叶って、県大会は優勝する
わたしは全国大会出場を決めるもみんなで行きたかった
リレーはいけなくって悲しすぎた。

 

人との繋がりが苦手だったわたしだけれど
陸上部の仲間とは共に、個人競技だったのでそれぞれに、目標に向かって
意外とじぶんだけより**みんな**で何かを目指す達成することへの憧れが強かった。

 

 

 

 

そうしてるうちに
高校はスポーツ推薦で陸上をするために学校に行き
スポーツ科だったので勉強はそこそこにお昼が終わると練習の日々だった。

 

 


スポーツ科は男子がほとんどで、
好きな人がいたこともあったわたしだけど
男子という生き物全般が実は怖かった。

 

 

 

でも、周りは男だらけ。こわい。。
そんなじぶんを変えたくって、まずは挨拶からしてみることにした。
下駄箱で会ったクラスメイトに''おはよう'を言う。笑
そんな簡単なこともできなかった。

 

 


もうそれだけで
ドキドキして仕方がなくて
高校生になると先輩は一気に大人な感じだし
最初の頃は気がきじゃあなかった。

 

 

 

陸上部の笑顔が素敵で優しい先輩に
「吉川(わたしの旧姓:きっかわ)は笑うとミッキーマウスみたいだね」
と言われ(口元が)喜んでいいのかなんなのかよく分からなかったけれど
わたしは嬉しくって、そうして少しずつわたしからしたら
男子とも先輩とも話せるようになっていった。(あくまでも、わたしからしたら。がポイント笑)

 

 

 

とにかく毎日走る日々で
走ること本当にすきなのかな?と思ってしまうときも
多々あったけれど中学生のときに達成できなかった
全国大会で入賞するという目標に向けて頑張っていた。

 

 


高校2年生の冬には
初めての彼氏ができて
ひとつ歳下だった彼に毎日大きいおむすびを結んでいた。

 

 


これを書きながら
今でもそのおむすびを結んでいたときの感覚を思い出す。

このときから色んな場面でおむすびを結んだけれど
あのとき、あの人に結んでいたおむすびの大きさやその感覚って
ひとつひとつ違くって案外覚えているものなのだなあ。とすこし驚いている。

 


 

 

 

わたしが食に興味をもったのは
小さな頃から食べるのが大好きで
休みの日にお菓子作りをするのが好きだったけれど
そこから更に食に取り組むようになったのは中学生のとき。

 

 

 


陸上部の顧問の先生に
走るだけではなく、食べるものも大切なんだ。と教えてもらい、
最初はほんとうに簡単に1日に何杯ごはんを食べればいい。肉魚料理を食べればいい。というチェックからはじまった。

朝練があり、朝早いわたしだったが
母が朝起きるのが少し遅かったため
じぶんの朝食をつくりはじめた。

 

 

 

段々と、栄養学の勉強をしていくうちに
ハマると極端になるわたしは野菜の重さなども計って食べるようになった。

 

 


1日これくらいの量を食べるために、朝の野菜は、昼の野菜は◯◯g…
高校生になると、女子は体重が増えやすいから気をつけるようにと言われ
甘いものは我慢して食事も野菜中心にしていた。

 

 


そうしているうちに
貧血になったり怪我をしてしまったりして
強くなるための食事ってどんなだろう。
というのが食に興味を持ち始めたわたしの最初のテーマだった。

 

 

 

そんなことも乗り越えて
無事に個人ではインターハイに出場、予選敗退するも
*みんなで*を叶えたかったわたしには嬉しい
リレーにて入賞を果たした。

 

 

 

3年生でももう少し競技生活は続くけれど
進路を考えなければいけない。

 

 

 

陸上を続けるなら一流のところでやりたい。
当時、女子の陸上部が盛んだった大学の名前を言うも
あそこは頭がないと入れない。と監督に鼻で笑われた。

 

 


両親は陸上をするなら東京に出してもいいと思っていたようで
東京の大学で推薦でいけるようなところへ行って
社会勉強しながら陸上をそこそこにやってもいいんじゃないか。と提案してくれた。

 

 

 

中途半端が嫌いなわたしはやるならトコトン!
中途半端にやるなら辞めた方がいい。と
このまま陸上を続けるのは簡単だけど、じぶんの中で
当時難しいと感じていた*辞める*ということを選択することにした。

 

 

 

そうして、
進路の話が学校でされ始めたときに配られた
職種の中にあった調理師がなんだかかっこよく感じたことと

甘いものを我慢していた当時、でもケーキやパンが好きで
ケーキ屋さんやパン屋さんやカフェの情報を切り取っては貼ったノートをつくっていて憧れもあって


カフェなんてそーんなに行ったことがなかったけれど、
いつかスマイルマークのまんまるな看板をつけたカフェをつくろう。と
専門学校にお菓子づくりを学びにいくことにした。

 

 

 

ほんとうは、
当時大好きだった高橋歩さんの影響で世界一周にいきたかったけれど
そんなことを口にする勇気もなくいつか、というか若いうちに20代前半には
お金を貯めて旅経とう。と心にしまい、次にやってみたいことを選んでみることにした。

 

 

 

 

 

 

この頃、何か迷うと本屋さんへ出掛けていたわたし。
当時、テレビでオーラの泉に出演していた江原さんの本を見つけた。
最初のページに書いてある言葉にハッとした。

 

 

 

 

**あなたがこの本を手に取ったのは偶然ではありません。**

 

 

 

 

…なぜかえらく納得した。
うんうん、そうだよね。この懐かしいような安心感。

 

 

 

江原さんの本に書いてある言葉はすべてじぶんのなかに
スーーっと入ってきて
中でもわたしが大きく心惹かれたのはひとりひとり**天職*があるということ。

 

 

じぶんの魂を精一杯活かして人の役に立って生きていきたい。
そう、想ってじぶんんを知ることに貪欲になり
スピリチュアルな本や高校を卒業してからはセミナーはスピリチュアルな勉強会に参加し、じぶんの天命、天職を見つけたいといつも願っていた。

 


 

 


ちなみに、
毎日おむすびを結び続けてあげた彼とは
もうすぐ付き合って1年。というときに別れた。


同じ陸上部だったのだが、
陸上に対する不安や不満が多くて、んもう、、弱々しい!と思ってしまったのだ。
そんな話ばかりでわたしという存在はいったい何なんだろうと。

 

 


好きでやってるんだから文句言うな。
とまではさすがに当時言えなかったけれど
不安や不満があっても口にできなかったわたし。

じぶんの弱さを誰にもさらけ出すことができずにいた
じぶんができずにいたことを堂々としていた彼が許せなかったのだ。

 

 

 

ほんとうは、彼が許せなかったのではなく、

弱音を吐くこと、弱いじぶんを

じぶんじしんが認めてあげれなかっただけなのだけれど。

 

 

 

 

 

彼と別れた直後、すぐにクラスメイトの男の子と付き合いはじめた。
東京の大学に進学する予定だった彼とはすぐに遠距離恋愛になり
わたしとしては彼が大学卒業したら結婚したい。と思っていたのだが
専門学校に入学して1ヶ月も経たないうちに電話で別れを告げられ
あっさり終わった。

 


と言ってもわたしの方はまったくあっさりではなくって
途中好きな人もできたりしたが、彼に会うと一気に気持ちを引き戻され
約5年間、引きずった。

 

 


そんな風に、正直勉強どころなんかじゃあない
大失恋と共に新しい生活がスタートした、2005年春。

物語〜序章その1


1986年7月22日ぎりぎりかに座、
吉川家の長女として麻美という名前をもってこの世に生をうける。


生まれてはじめてのキオク…
物語のはじまりは、幼稚園の年少のトキ。
三姉妹である吉川家の一番下の妹が生まれ
母がまだ病院に入院していたとき。

寂しくてさみしくて仕方がなかったのだが、
洗面所で歯磨きをしながら"お姉ちゃんなんだからガマンしなくちゃ。"と
涙をグッと堪えているシーンである。


これが、わたしの幼少期…というより
わたしの人生の多くのわたしの在り方の象徴であるくらい
誰に何を言われた訳でもなくこの想いを胸に、しっかりしたじぶんを生きようとしていた。

(母も同じく長女で幼い頃、様々な想いがあったらしく"お姉ちゃんなんだから!"と言われたことは一度もなかった。)



公務員で真面目な父と、明るく行動的な母。
父はあまり多くは語る人ではなかったけれど、
休みの度に父との遊びや出掛ける時間。
2人で時たま出掛けるときはちょっぴり緊張しながらも大好きなじかんであった。

母とのゲラゲラと笑い合うじかんは今でも大好きなのだが
幼い頃は特に母の機嫌をいつも伺っていたようにおもう。

そんな両親と2人の今でも可愛い、自慢の妹と5人暮らし。
どこにでもある、よき家族の中で育った。




幼い頃は近所の友達と外を駆け巡った。
年齢いろいろ、多いときは10人以上。
キックベース、リレー、秘密基地、冬はソリに雪遊び。

年齢いろいろなみんなが楽しく遊べる遊びを考えてよく、遊んだ。
住宅街で育ったが両親がよく自然の中に連れて行ってくれたり
すぐ近くの公園や小さな山で秘密基地をつくったりして自然も好きだった。


途中にファミコンがやってきて
魅力を感じたが、母は外で遊べ遊べうるさかった。
友達のウチでこっそりやらせてもらったこともあったが
我が家にファミコンがやってきたのはだいぶ後で外で遊ぶことが多かった。



冒頭に書いたはじめてのキオクの後、
どうやらしばらく幼稚園を休んだらしく(そのときのキオクはない)
久しぶりに幼稚園に行ったときに、担任のゆみこ先生がハグをして迎えてくれて
とてもビックリ&嬉しかった思い出がある。

わたしの中にあるキオクの中で
子どもの頃に大人にハグをしてもらったのは
このときだけで、それに気づいたとき両親にじぶんは愛されていないかもしれない。という感覚はここからきているのかもしれない。と思った。


そう、両親には不自由なく育ててもらい
愛がそこにある。ということは頭では分かるのだけれど
わたしより妹たちのほうが可愛いんだ。とか
女の子だけ、長女なわたしはわたしが男に生まれたらよかったんだ。と
どこかじぶんの存在を認められずに幼い頃から生きてきた。

そして、近所の友達と遊ぶのは元気いっぱい、
いつものじぶんでいられるのだが
人見知りで集団行動が苦手だったのか幼稚園はあまり好きになれなかった。

それでも、数人できた友達は嬉しくてうれしくて
違うクラスでも遊びに出掛けたり
年長では担任のヒロコ先生が面白くて大好きになり
あまり休みもなく登園していたようにおもう。

ヒロコ先生の
「麻美ちゃんの笑顔はひまわりみたい」というコトバが嬉しくて
いつも笑顔でいようと思うも小学校に入るとそうもいれなかった。



一年生になったら〜♪と
楽しみにしていた小学校だったが
小中学校の9年間は学校というものが嫌でイヤで毎日憂鬱で仕方がなかった。



と言ってもそんなこと、一言も放ったことはなく
まして休みたくてもカラダが人一倍健康なので
学校を休みたくて前の晩に水シャワーをどんだけ浴びても
全く効果はなく、朝礼で貧血で倒れたいなーなどと思っても
今ではちゃぶ台を担いで富士山に登る強靭なカラダをもったわたしにそんなことが叶うはずがなかった。


休んだことといえば、確か小学1年生のときに
朝起きられず、起こしにきた母に
「どうしたの?お腹痛いの?」と聞かれ
うん。と頷いてみた仮病の一回のみだったように思う。



別にいじめられた。とか友達がいなかったという訳ではなくて
運動やカラダを動かす遊びは元気いっぱいだけど
内弁慶で学校ではうまくじぶんが出せなかった。


それでも仲のよい友達は進級する度に数人はいて
その子たちの前ではよくしゃべり、よく遊んだ。



それなのに
小学校低学年で交換日記をしていた友達に
いきなりぐちゃぐちゃになったノートに大嫌いと訳もわからず書かれたり
仲のよかった友達が実は影で悪口を言っていたよ。ということが何度かあったり
泊まりで出掛けたイベントで突然仲のよかった子に無視をされたり
友達の少ないわたしはポツンとひとりになるしかなかった。


だからと言ってそれを誰かに言えるはずもなく
ましてや、幼稚園の頃から
わたしたちを子どもを子ども扱いする大人という存在が信じられなかったし、
母親が麻美は友達いるのかな…と言ってたらしいよ。
とわたしの数少ない友達のお母さんに漏らしていたことを
その友達が話してきて、お母さんには心配させまい。と強くつよく誓い
学校も習い事も苦痛でしかなかったけれど、何事もないように通った。



泣くもんか、しっかりしなくちゃ。とひとりでいる強さを身につけ
人はよくしてても裏切るものなんだ。ということを学んだ。





学校で唯一好きで安心できたのは図書室。
短い休み時間でも休み時間の度に通ったときもあった。

特に好きだったのは伝記。
漫画で描かれたものだったが
夢中で読んで、それぞれに素晴らしい生き方をした偉人たちのように
じぶんもなりたいと思っていたのでは?と今になっておもう。

でも、暗い狭いじぶんの世界とはかけ離れすぎて
当時は憧れすら抱けていなかったのだとおもう。





大好きだった給食のじかんも
学年を重ねる毎ににじぶんをより内へうちへと
閉じ込めるようになるに連れてだんだんと苦痛になってきた。



学校で好きな芸能人をすら言うことすら恐れ多くて
友達に絶対に言わないでね!!と念を何度も押し
*じぶん*というものを隠し続けた。



仲のよい友達に見せる放課後の顔と
学校でじっと黙りじぶんを押し殺すギャップが大きくて
友達に、学校のみんなが麻美ちゃんのこんなはしゃいでいる姿を見たらビックリするね。と言われ、ショックを受けた。


このじぶんを見せちゃいけない。
みんなの目に映る、大人しいじぶん。を学校では無意識に演じはじめた。
その演じたじぶんをじぶんそのもののように言われると
(麻美ちゃんって大人しいよね。暗いよね。)
ものすごくショックで、わたしは周りの人に対してすぐに、
あなたはこうゆう人だよね。と決めつけるのを辞めよう。
人には色んな側面があるんだ。と静かに心に決めた。



そんな中、個人の卒業写真を先生がひとりひとり撮ってくれたのだが
みんなが見ている中、怖くてこわくて顔がひきつって全く笑えない。という出来事もあった。


周りの言うことや出来事に
いちいち反応してたらきっとじぶんがもたない。とココロが無意識にに
生き抜くために働いたのか、気がついたら感情を押し殺し感じないようになっていた。
そうしたら、傷つかなくて済むから。

そうして表情もきっと固くなっていって中学生にあがる頃には
大嫌いだった男の子に*無表情*と言われるまでになっていた。




それでも
幼稚園、それを卒業してから通った習い事が
キリスト教だったこともあって
毎晩神様に家族が元気でいられることを布団のなかで願い
どこかに希望を感じ祈っていたのかもしれない。