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〜ちゃぶ台アーティストasami〜

わたしを生きる物語 第2章〜その1

今年、2月に
ニュージーランドに行く前に
書き始めたじぶんじしんの物語*


そのときは第1章で終わってしまっていたのだけど
まだ書き終えなかった第2章の物語もしっかりと感じて
ニュージーランドでその続きを、じぶんのカケラと出逢ってきた。


ニュージーランドからはじまった物語…
そしてニュージーランドで結んだ物語を
今もう一度感じている。

 

ニュージーランドで結んだとおもった物語は
まだ、結ばれていなかった。

 

第2章…
じぶんにスナオに生き始めて
辿り着いた先は
**じぶんを愛する。**ということだった。


もちろん、人生を通して終わりはないこのテーマ。
だけれど
じぶんを愛するをテーマのこの章を
今、わたしは結ぼうとしている。

 

全くじぶんを愛せず信じられずに生きた1章
震災を機に、スナオなじぶんを生き始め
*じぶんを愛する*ということを知る。

パートナーや仲間のお陰で
じぶんを愛し信じられるように。

そうして今、
じぶんがじぶんだけでも
純粋にそれをーじぶんを愛してあげることを。


じぶんを愛せないじぶんとは
じぶんをたいせつにできないじぶんは
誰かのためにじぶんを愛するなんて
もう、終わり。

 

誰がいなくても
誰に愛されなくても
ただただ純粋に
じぶんがじぶんを愛してあげる

 

スナオに生きて
みんなから、世界からたくさんのものを受け取って
生かされてじぶんを愛した先に
トコトンまでにスナオになった先にどんな景色が待っているんだろう。


そんなじぶんの物語を
じぶんが覗いて見たくて書いてみている。


そうして
今のわたしの願いは
じぶんの生きた物語を絵本にすること
そして星を描くこと

それを銀河鉄道のうまれた、宮沢賢治の故郷 花巻でしたい。

 

スナオになんてなれなかったわたしが
じぶんで在ることが怖くてたまらなかったわたしが
スナオになることだけで、じぶんで在ることだけで生きてこれたこと


じぶんの存在を認められず、愛せなかったわたしが
じぶんを愛しゆくその物語はきっと、希望になる


わたしはただ、わたしを生きて、
生きてゆきたい。生きてきた。生きてゆく

それを魅せ続けたい

 

 

わたしの人生の物語の第2章は2011年3月11日、
ジョンレノンの**IMAGINE***〜想像してごらん〜という問いからはじまる。



その前日の3月10日。
わたしは東京の世界一周のことを伝えている団体が主催する
イベントへ出掛けていた。


当時好きだった
世界中をダンスしながら巡っている
EXILEのUSA出演していて
たまらないひとときだった。

 

イベントの中で3/10
きょうで何かが変わる!と何度も
主催されていた方が言っていたのが印象的だった。


つかっていたコトバは
細かく覚えていないのだけれど
震災を予想していたわけでもないだろうが
あとになって振り返ると
確実にあの日を境にわたしの人生は変わっていて
なんあだか予言めいた不思議な感覚だった。

 

イベントが終わって
18切符で往復しようとしていたわたしは
おそらく帰り道…鈍行電車で行けるところまで行って
たぶん、宇都宮かどこかのファミレスで朝を迎え
始発で仙台へと向かった。


3月11日
その日は、当時職場であった
児童養護施設を卒園する子どもたちを送る会が
夜に開催される予定で
食事もいつもより豪華に作るために
調理員一同揃っての勤務でいつもとはちょっと違ったシフトだった。

 

午前中に
仙台に辿り着き
月に一度や二度、何をするでもない
海に会いに出掛けていた浜辺に
行こうとするも、ちょっと時間が足りないかもな。と
その日は止めて図書館へ出掛けることにした。


あとあと気づく…
時間は違えど
3月11日津波の被害があった浜に出掛けようとしていたことを。

 


図書館では
めったに借りないCDを何故か借りよう。という気持ちになり
ジョンレノンのIMAGINEを借りた。

 

 

そうして
職場へ行き、夜の会の準備をはじめる。

お祝いの席だからとその日はお赤飯で
大きな釜で炊くお赤飯が上手くいくか?と
昼間から早めに試作で炊いていたり
揚げ物が多いから。と
フライヤーに早めに火をいれはじめたり

いつもは1人でごはんを作るところを
調理員全員と栄養士さんも。と 調理職員総出だったり
なにかといつもと違う状況と雰囲気の中
準備は進んでいく。

 

そして
やってきた14時46分

今までに感じたことのない
不気味で大きな揺れ。

訳がわからず
歩けなくなりその場にしゃがみ込む。


動揺の声や
さっきつけたフライヤーの火を冷静に消す姿が横目に映る。


この頃の記憶は細かくは覚えていなくて
でも

もう、ダメかもしれないー

そうおもったことは覚えている。

 

施設にいた子どもたち、職員
全員施設の外に出て安全を確認し合い
その後の動きの指示を待つ。


雪が降り始める中
ひとりの
子どもがラジオをもってきていて
そこから*津波*というコトバが聞こえてきた。

が、そのときのわたしにとって
意味が全くわからなかった。


この瞬間にも
たくさんのいのちが
たくさんの人の夢が津波にのみこまれ
悲劇がすぐ近くで起こっている。とは到底思えなかった。

 

けっこうな大きな地震ではあったけれど
夜の会も
また準備をして普通に開催、
明日からも通常通りの日常になる。と何故か楽観的だった。

 

けっきょくその日は
電気もガスも水道も止まってしまい
早めに炊いておいたお赤飯をおむすびにして
あとはどうしたのか忘れてしまったけれど
とにかく送る会どころではなくて
避難した体育館で炊き出しのような形で
皆に食事を配った。


地震直後から
家族とは連絡が取れずにいたけれど
夜には、帰っていいよ。と言ってもらい

街灯も信号機もついていない道路を
シーンとこの世界の人わたし以外いなくなってしまったんじゃあないか。
というくらいに静まりかえった街を
車に乗って恐るおそる帰っていった。


坂を下るときに
見上げた空ー
あのときの星空と
星々を見て感じた希望が、きっと今ここに繋がっている。

 


**大丈夫**ーそう思えた瞬間だった。