●●ちゃぶ台から世界をひっくり返す●●

〜ちゃぶ台アーティストasami〜

物語〜序章その1


1986年7月22日ぎりぎりかに座、
吉川家の長女として麻美という名前をもってこの世に生をうける。


生まれてはじめてのキオク…
物語のはじまりは、幼稚園の年少のトキ。
三姉妹である吉川家の一番下の妹が生まれ
母がまだ病院に入院していたとき。

寂しくてさみしくて仕方がなかったのだが、
洗面所で歯磨きをしながら"お姉ちゃんなんだからガマンしなくちゃ。"と
涙をグッと堪えているシーンである。


これが、わたしの幼少期…というより
わたしの人生の多くのわたしの在り方の象徴であるくらい
誰に何を言われた訳でもなくこの想いを胸に、しっかりしたじぶんを生きようとしていた。

(母も同じく長女で幼い頃、様々な想いがあったらしく"お姉ちゃんなんだから!"と言われたことは一度もなかった。)



公務員で真面目な父と、明るく行動的な母。
父はあまり多くは語る人ではなかったけれど、
休みの度に父との遊びや出掛ける時間。
2人で時たま出掛けるときはちょっぴり緊張しながらも大好きなじかんであった。

母とのゲラゲラと笑い合うじかんは今でも大好きなのだが
幼い頃は特に母の機嫌をいつも伺っていたようにおもう。

そんな両親と2人の今でも可愛い、自慢の妹と5人暮らし。
どこにでもある、よき家族の中で育った。




幼い頃は近所の友達と外を駆け巡った。
年齢いろいろ、多いときは10人以上。
キックベース、リレー、秘密基地、冬はソリに雪遊び。

年齢いろいろなみんなが楽しく遊べる遊びを考えてよく、遊んだ。
住宅街で育ったが両親がよく自然の中に連れて行ってくれたり
すぐ近くの公園や小さな山で秘密基地をつくったりして自然も好きだった。


途中にファミコンがやってきて
魅力を感じたが、母は外で遊べ遊べうるさかった。
友達のウチでこっそりやらせてもらったこともあったが
我が家にファミコンがやってきたのはだいぶ後で外で遊ぶことが多かった。



冒頭に書いたはじめてのキオクの後、
どうやらしばらく幼稚園を休んだらしく(そのときのキオクはない)
久しぶりに幼稚園に行ったときに、担任のゆみこ先生がハグをして迎えてくれて
とてもビックリ&嬉しかった思い出がある。

わたしの中にあるキオクの中で
子どもの頃に大人にハグをしてもらったのは
このときだけで、それに気づいたとき両親にじぶんは愛されていないかもしれない。という感覚はここからきているのかもしれない。と思った。


そう、両親には不自由なく育ててもらい
愛がそこにある。ということは頭では分かるのだけれど
わたしより妹たちのほうが可愛いんだ。とか
女の子だけ、長女なわたしはわたしが男に生まれたらよかったんだ。と
どこかじぶんの存在を認められずに幼い頃から生きてきた。

そして、近所の友達と遊ぶのは元気いっぱい、
いつものじぶんでいられるのだが
人見知りで集団行動が苦手だったのか幼稚園はあまり好きになれなかった。

それでも、数人できた友達は嬉しくてうれしくて
違うクラスでも遊びに出掛けたり
年長では担任のヒロコ先生が面白くて大好きになり
あまり休みもなく登園していたようにおもう。

ヒロコ先生の
「麻美ちゃんの笑顔はひまわりみたい」というコトバが嬉しくて
いつも笑顔でいようと思うも小学校に入るとそうもいれなかった。



一年生になったら〜♪と
楽しみにしていた小学校だったが
小中学校の9年間は学校というものが嫌でイヤで毎日憂鬱で仕方がなかった。



と言ってもそんなこと、一言も放ったことはなく
まして休みたくてもカラダが人一倍健康なので
学校を休みたくて前の晩に水シャワーをどんだけ浴びても
全く効果はなく、朝礼で貧血で倒れたいなーなどと思っても
今ではちゃぶ台を担いで富士山に登る強靭なカラダをもったわたしにそんなことが叶うはずがなかった。


休んだことといえば、確か小学1年生のときに
朝起きられず、起こしにきた母に
「どうしたの?お腹痛いの?」と聞かれ
うん。と頷いてみた仮病の一回のみだったように思う。



別にいじめられた。とか友達がいなかったという訳ではなくて
運動やカラダを動かす遊びは元気いっぱいだけど
内弁慶で学校ではうまくじぶんが出せなかった。


それでも仲のよい友達は進級する度に数人はいて
その子たちの前ではよくしゃべり、よく遊んだ。



それなのに
小学校低学年で交換日記をしていた友達に
いきなりぐちゃぐちゃになったノートに大嫌いと訳もわからず書かれたり
仲のよかった友達が実は影で悪口を言っていたよ。ということが何度かあったり
泊まりで出掛けたイベントで突然仲のよかった子に無視をされたり
友達の少ないわたしはポツンとひとりになるしかなかった。


だからと言ってそれを誰かに言えるはずもなく
ましてや、幼稚園の頃から
わたしたちを子どもを子ども扱いする大人という存在が信じられなかったし、
母親が麻美は友達いるのかな…と言ってたらしいよ。
とわたしの数少ない友達のお母さんに漏らしていたことを
その友達が話してきて、お母さんには心配させまい。と強くつよく誓い
学校も習い事も苦痛でしかなかったけれど、何事もないように通った。



泣くもんか、しっかりしなくちゃ。とひとりでいる強さを身につけ
人はよくしてても裏切るものなんだ。ということを学んだ。





学校で唯一好きで安心できたのは図書室。
短い休み時間でも休み時間の度に通ったときもあった。

特に好きだったのは伝記。
漫画で描かれたものだったが
夢中で読んで、それぞれに素晴らしい生き方をした偉人たちのように
じぶんもなりたいと思っていたのでは?と今になっておもう。

でも、暗い狭いじぶんの世界とはかけ離れすぎて
当時は憧れすら抱けていなかったのだとおもう。





大好きだった給食のじかんも
学年を重ねる毎ににじぶんをより内へうちへと
閉じ込めるようになるに連れてだんだんと苦痛になってきた。



学校で好きな芸能人をすら言うことすら恐れ多くて
友達に絶対に言わないでね!!と念を何度も押し
*じぶん*というものを隠し続けた。



仲のよい友達に見せる放課後の顔と
学校でじっと黙りじぶんを押し殺すギャップが大きくて
友達に、学校のみんなが麻美ちゃんのこんなはしゃいでいる姿を見たらビックリするね。と言われ、ショックを受けた。


このじぶんを見せちゃいけない。
みんなの目に映る、大人しいじぶん。を学校では無意識に演じはじめた。
その演じたじぶんをじぶんそのもののように言われると
(麻美ちゃんって大人しいよね。暗いよね。)
ものすごくショックで、わたしは周りの人に対してすぐに、
あなたはこうゆう人だよね。と決めつけるのを辞めよう。
人には色んな側面があるんだ。と静かに心に決めた。



そんな中、個人の卒業写真を先生がひとりひとり撮ってくれたのだが
みんなが見ている中、怖くてこわくて顔がひきつって全く笑えない。という出来事もあった。


周りの言うことや出来事に
いちいち反応してたらきっとじぶんがもたない。とココロが無意識にに
生き抜くために働いたのか、気がついたら感情を押し殺し感じないようになっていた。
そうしたら、傷つかなくて済むから。

そうして表情もきっと固くなっていって中学生にあがる頃には
大嫌いだった男の子に*無表情*と言われるまでになっていた。




それでも
幼稚園、それを卒業してから通った習い事が
キリスト教だったこともあって
毎晩神様に家族が元気でいられることを布団のなかで願い
どこかに希望を感じ祈っていたのかもしれない。