●●ちゃぶ台から世界をひっくり返す●●

〜ちゃぶ台アーティストasami〜

物語の序章〜その3〜


じぶんの物語の
新たな章のはじまりと結びの予感を感じて
ニュージーランドに行く前に記したかった、わたしじしんののこれまでの物語。



書けるとこから書けるときに。とやっていたら
ずっとなかなか進まなかったのに昨日から何かスイッチがはいったらしい。笑
飛行機のなかでもひたすら書いた。



お陰様で経由地の
クアラルンプールに到着♡

空港は意外と穏やかです。




中途半端なところからのスタートで終わりはまだまだなのだけど。





先日、さわさんがわたしの両親に一瞬会い
挨拶してくれる機会があったのだけど
「ご両親、普通だしすごくいい人そうだねー。
突然変異で麻美ちゃん生まれちゃったのね。笑」

とみんなで笑っていたけれど
じぶんの人生を振り返っていたら
わたしもとっても普通の感覚をもっていた。

いい子にしなくちゃ。
親の目、世間の目を気にする。
じぶんのスナオな想いよりも親の意見を大切にしたり
どこかじぶんの気持ちに嘘をついてその想いがほんとうだとさえ言い聞かせて
お金のために働いたりもしていた。


普通と言ったけど普通以下かもしれない。
ほんとうに、ささいな日常の、普通の人が言えるであろう
こうしたい。これがいい。が言えなかった。



そんなわたしが今、
じぶんの想いにスナオになることがすごく大切で、それを生きること
ちゃぶ台を囲んでスナオな想いを伝え合える場をつくる挑戦をしているのだから面白い。




過去のじぶんを知ってもらいたい。というよりは


ひとつの物語を結び
新しい物語がはじまるこのときを
これまでの物語を語ることで
この物語の行方を共に分かち合える人がいたら嬉しいな。ということと


わたしの物語が
ほんとうはあなたの中にも潜む
壮大で自由な物語の扉がノックできる存在になれたら嬉しい。






じぶんを知りたくてじぶんを生きたい。という願いは
わたしたちのいのちそのものの願い。




この世界に
じぶんの物語を描き、じぶんを知り、それを生きるためにやってきた
わたしたちはほんとうに愉快な存在だとおもう。



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はじまるよ〜




2010年に栄養士の勉強をするべく
一人暮らしをしながら通った埼玉の短大を卒業して地元の仙台に戻ってきた。



高校卒業後
専門学校で製菓を学び、
高校時代陸上をしていて甘いものをガマンしていたことと
本格的なフランス菓子の魅力に取り憑かれ、甘いものをよく、食べた。
そして、よく肥えた。笑


ほぼ、毎月東京に行き有名なフランス菓子にお店を食べ歩きして巡った。
せっかく就職して学ぶなら本格的なところで。
と学校に東京から講師にきてくださっていた先生の
フランス菓子店でこの学校の卒業予定の人に就職枠をつくる
という話を聞き、いきたい!!と願うも…


両親の近くにいてほしい。という願いに逆らえずに希望を申し出る前に
あっけなく破れた。


それが、製菓を学び終わる頃。
さて、じゃあどうしようか。と
専門学校のもうひとつの調理科に進む人なんかもいて
それはイイかも。と両親に言ってみると
製菓も調理もできたら就職に有利だとかなんとか言われて
引き続き学ぶ許しをもらった。


調理科は夜間部もあって
昼間は学校から紹介してもらった新しくオープンする
小さなフランス菓子店や高校生のときからやっていたケーキ屋さんや
イタリアンのお店、夜学校がないときは製菓時代からやっていたコールセンターでのバイト。とよく働き夜は学校で学んだ。


さらに、早朝に働けないか。と考えていたくらいだったけれど
そんな生活を数ヶ月過ごして、じぶんに異変が訪れた。


夜、学校や学校が終わった後は
じぶんへの可能性やあんなこと、こんなことしたい。と
語ったり妄想したり元氣なのだけれど
翌朝起きるとあの想いはどこへやら。


すべてのやる気が何者かによって奪いさられてしまったようで
起きれない。でも起きなきゃ。でもツライ。。。
そんなじぶんを抱えながらも頑張る日々。

ふと本屋でわたしは何がおかしいんだろう?
と本を手に取ってみた。
精神病の本…うつ病の診断表をじぶんの症状と照らし合わせてみると
ほぼ、全部当てはまる。


うつ病、、なのかなあ。
なんかちょっと救われたような、認めたくないような。。
どれくらい経ってからかは忘れたけれど
誰にも言えなくて相談できなくてどうにもできなくて
精神科へ行ってみることにした。


入るところを誰かに見られたらどうしよう。
病院に行ったことを両親にバレないだろうか。。
やっぱり辞めようか。そんなことをグルグル考えて、、
勇気をだしてドアを開けた。


問診票やいくつかの質問を経て
先生に言われたひとこと。
鬱病ですね。頑張りすぎたのでしょう。ーがんばりましたね。」



鬱病と認めたくなかったはずなのに
鬱病であったじぶんにホッとし、
先生のコトバに救われた気持ちになった。


今思うと
あの頃、両親に迷惑を掛けないようにと
早く一人前の大人になりたくて
頑張らなくちゃがんばらないと。早く自立しないと。と
必死になって働いていたじぶんへ少しお休みしようよーーとカラダからのサインだったのだとおもう。


薬をもらい、できるだけゆっくり休んでください。
と言われるも、そうもいかないよなあ。

と頑張って変わらない生活を続けようとしていたけれど
薬の副作用で具合いが悪かったり、人と約束をしても直前になると
気持ち的にもう出掛けることも誰かに会うこともカラダが拒否して
よくドタキャンすることも多かった。
でも、断りの連絡をいれた途端に申し訳なさ以上にホッと安心していたようにおもう。




お金が欲しくて働いていたものの
あまり多く収入があっても親の控除を外れてしまうとかなんとかあるらしい。
そしてこの勢いでいくとその金額も越えてしまいそうだ。

ということで、
心も限界を越えていたこともあって
複数していたバイトを思い切って年の後半の数ヶ月休ませてもらうことにした。


そのときのことをよくは覚えていないけれど
夜は学校に勉強へ出掛けて、昼間はひたすらにゆっくりしていたのだとおもう。


家で犬を飼っていたので
よく夕焼けを追いかけて一緒に散歩に出掛けた。
夕焼けは一瞬でその表情をくるくる変える。
美しいその一瞬を感じたくて夕方になると愛犬リューと共に家を飛び出した。
田んぼの広がる場所までの道を駆け抜けた。




そんな日々の、
ある日の夕焼けのじかんに感じた感覚が忘れられない。




いつもの夕焼け。
黄金に輝く稲穂、美しい空のグラデーション、わたしたち2人の影、澄んだ空気。




毎日何か満たされず、何かを掴みたくっていたあの頃。


その夕焼けの瞬間、わたしの中に訪れたのは
すべてここに在る。という感覚。それまでの人生でこんなにも満たされたことはない。
とおもえるくらい内側から満ちみち満たされる感覚を感じていた。




こんな感覚で生きていきていきたい…





これまで、
いつもどこにいてもわたしの居場所はここじゃない。と感じてきて
早く中学生に、早く高校生に、、早く大人になりたい。
と願ってきたけれど大人になった当時も
何か満たされない思いと共にじぶんじしんの存在を認められず
じぶんの居場所も感じられずにいたわたしの中に突然舞い込んできた初めての感覚。



ようやく出逢えた
その満ち足りた気持ちとこれまでに感じたことのない安心感は
わたしの中に染み込んでいき、でもあっという間にいなくなってしまった。





うつ病のことを
しばらく、親にも誰にも言えずにいたのだけれど
当時仲がよくて尊敬していたお姉さん的存在の友人に打ち明けてみることにした。


それが、とてつもなく怖くてこわくて
嫌われやしないか。ドキドキしながら伝えた記憶がある。


その友人は少し年上だったこともあって
たくさんの友人や経験があって以前に友達にもうつだった人がいたようだった。


苦しみを感じ、受け入れてくれた姿にホッとしたのも束の間
次の言葉にあっという間に突き放された気持ちになった。

「何かしたいと思っても、周りは何の力にもなれなくて結局本人でしかないんだよね。」


今となってはその言葉の意味はわかるけれど
勇気を出して、そしてきっと当時、助けてほしくて打ち明けた
わたしの想いはそのまま床にガシャン。と落ちて割れてしまった。



もう、誰にも頼るまい。誰にもこのことは話すまい…


そう誓って、
当時、一緒に住んでいた両親もわたしの異変には
気づかずにいた寂しさと恨みに近いような気持ちと
でも、気づかれたくない心配させたくない想いからの安心感の狭間に揺れながら
ますます誰もわたしのことは助けてくれない。頼ってはいけない。
強くならなくちゃ。という想いを強めていった。




その頃、
幼い頃からあった世界の平和を願う気持ちや
地球の環境問題を改善したい想いが強くなってきていて
食に関しても**人間だけじゃあなく、地球も地球に住む生き物たちもHappyであれるごはん**はないのだろうか?と考えていた。


あるとき出掛けた本屋さんで見つけたマクロビオティックに衝撃を受けて
わたしの探していたものはこれだ!!と
ちょうど、肉食に疑問を感じていた時期でもあったので
完全に肉食を辞め、マクロビオティックの実践をはじめた。



うつ病の薬、病院に行くこともわたしの中で
だんだんと違和感がでてきて2ヶ月ほどで辞めてじぶんじしんのチカラで治す。と決めた。



うつ病だと分かった当初、薬以外に何かいい方法がないだろうか?と調べてみつけた***ヒーリング**という言葉。元々、スピリチュアルに抵抗のなかったわたしはすぐに受けてみることに。



何か、温かい感じがするけれどよく分からないなあ。と受けていたが
途中から涙がとまらなくなった。


嗚咽を漏らし、長い間泣き続けた。
他人の前でこんなにも泣いたのは初めてかもしれない。
施術にじかんが過ぎたにも関わらず、ヒーリングしてくれた方は優しく背中を触っていてくれた。


わたしもこんな、優しさを誰かにも届けたい…




聞いてみると
ヒーリングやスピリチュアルな学びを教えてくれる先生が
東京からやってきて施術してくれた方が勉強会を開いているとのこと。


そんなことへ興味がありながらも
その実践の場や仲間を本以外に入り口を見つけられずにいたので有難い。
早速出掛けてみることにした。


最初にその東京からやってくる先生のセッションを受けてみた。
前世が見えたり、わたしの守護霊からのメッセージを教えてくれるらしい。


わたしはじぶんの使命というものを知りたくて知りたくて
その使命を生きて人の役に立って生きていきたい。と願っていたので
その答えを知れると期待していたのだけれど残念ながら
断片的な情報ばかりでじぶんの使命は全く分からなかった。


勉強会では見えない世界の基本的な学びや
感じ、伝え合うワークが特に多かった。


例えば2人一組になって
相手から感じる色をカラダの部分によって描き、伝えることや
数あるリボンの中から好きなリボンを数本選び、よく触って相手に渡す。
受け取った人はそのリボンから感じるその人について伝えていく。
他に相手の持ち物をひとつ借りて、そこから感じる情報を伝えてみる。

じぶんというものについて知りたくて仕方がなかったわたしは
相手が言葉を伝えてくれることは嬉しくて仕方がなかった。
中にはすごく敏感で多くの情報を感じられる人もいて楽しかったのだが、
じぶんが伝える番になるともう不安だし言葉を発するのも怖い。


まず、このほんのり感じる*何か*は果たして正しいのだろうか?
的外れなことを言ってしまわないだろうか?
そして、それを言葉にするのがそもそも難しい。


じぶんの中に訪れる
時には映像で、色で感覚で感じる*何か*が信じられなくて
いつもいつも、正解を探していた。



それは、いつだって
じぶんの声なのだけど
いつも相手の反応を伺って伝えることを恐れたり
もしくはじぶんの中で感じていることや伝えなくちゃあいけないことを
相手が察してくれることや勝手に伝わっていることを何故か信じていた。


そういえば、陸上をしていた中高生時代…
秋の県の新人戦で◯◯秒で優勝する。とじぶんの中で決めて熱くなっていたにも
関わらず、尊敬していた顧問の先生にもっと◯◯する!とか◯◯秒で走ると目標を決めて貪欲になったら?と言われたときにはビックリした。


じぶんの中では目標を決めて練習にも熱意をもって取り組んでいたのに
何事もスマートにこなしているように見えるらしく、全く伝わっていなかったのだ。

高校生のときには、足を痛めてしまって言うのが怖かったということもあるが
勝手に、監督が感じとってくれているだろう。と思い込んでそのままでいたら
「ちゃんと口にしないと伝わらない」と怒られたこともあったっけ。



そんな風に、言葉にすること・伝えることの苦手意識と共に
勝手に想いは伝わるもの。という感覚とそれが通用しないことを知って
言葉にする難しさを感じるときは、頭にプラグを繋いでこの見ている映像を相手にも
見てもらえたら楽なのにー。といつも思っていた。

そして、じぶんの感覚やスナオな想いは伝えていけないもの。という
観念があってじぶんの感じたことをそのまま伝える行為は
毎度わたしにとってはいのち懸けに近い行為だった。



そんなわたしが今、
じぶんの想いにスナオになることがすごく大切で、それを生きること
ちゃぶ台を囲んでスナオな想いを伝え合える場をつくる挑戦をしているのだから面白い。




話が膨らんだが、
そんな風に、相変わらずじぶんのほんとうのほんとうのスナオな想いを
伝えることができないわたしが、また調理科の卒業を控えてまた進路を考えることとなる。



調理科では栄養学の勉強もあって
中高校時代に走るだけじゃなくて食べるものも大切。と教えてもらい
栄養学に興味をもって独学で学んで実践してそれなりの結果をだしていたわたしは
栄養学の楽しさを思い出し、スポーツ選手の栄養面のサポートをすることもいいな。と思いはじめた。


だけど、
ほんとうのほんとうは世界一周の旅にでたい。
でも、絶対反対されるだろう。東京での就職も無理。
そして、栄養士になってスポーツ選手のサポートというのも
わたしの気持ちであることに嘘はないのだけどマクロビオティックを実践するうちに
西洋の栄養学で栄養のサポートをするのが一般的だったのでそれに疑問を感じはじめていた。

調理の道で進むならマクロビオティックや自然食などより自然でカラダによい
ごはんを出すお店で学びたい。でもそんなお店仙台では多くないし小さなお店が多いから正社員は難しいかも。そんなこと許されない…



そんなことをぐるぐる考えてもじぶんの気持ちにスナオになって
チャレンジすることはできなかった。



以前に、両親に栄養士の勉強をしたいと言ったこともあって
わたしの気持ちはマクロビオティックを学びたい。という気持ちにすでに移り変わっていたのだが、そんなことは言えずじぶんの奥底にしまいこんで
じぶんでもそんなこと知りません。というくらいに知らんぷりをした。


調理師やパティシエは長時間労働なのにお給料が安かったり休みも少なかったりするのに対して、栄養士は勤務時間も一般的な会社員の人と同様なことが多かったり、お給料も調理師よりはよくて安定する。まして栄養士になるときに調理師の免許をもっていたら就職に有利だ。とかなんとか言われて
わたしが一度、栄養士になりたい。と言ったのが前提ではあるのだけど両親は栄養士になることを勧めた。


高校卒業しての3度目の進学も認めてくれている。

ほんとうの気持ちはどこへやら、それがじぶんの本音だと思い込んで
学びに行くなら、そして2年だけだったら。ーと許しをもらい
埼玉の短大に栄養士になる勉強をするために念願の一人暮らしをしながらの生活をすることに決めた。


調理科、夜間部は昼の部の学生が1年かけて勉強するのを
1年半かけて勉強するので卒業が10月だった。
短大入学まで約半年ある。

その半年の間にじぶんでもバイトをしてお金を貯める。と約束していたのだが
こんなにせっかくじかんがあるのなら、行ってみたかった
フランス菓子を学びにフランスに短期留学してみたい。。!
という想いがむくむくと湧いてきた。


思い切ってその想いを母親に伝えるも

なんでじぶんばっかり自由にするの。
短大の学費も大変なんだからね。お父さんも大変なのに。


と言われ、


ああーやっぱりじぶんは自由に生きてはいけないんだ。
早く自立してじぶんでちゃんと稼いで誰にも迷惑かけないようになってから
自由に生きよう。まだ、海外にいったことのない母親に海外旅行もプレゼントしたり親孝行してからだな。じぶんが最初に自由になったり楽しんだりしてはいけないんだ。


その想いをさらにしっかりと強化した。




はじめて、仙台を離れてくらし、一人暮らしもはじめて。


それでも寂しさは全くなくて一人暮らしを満喫した。
毎日じぶんで食材を自由に選びごはんを作れるのが嬉しくって
ごはんを食べたばかりでも次の食事は何を作ろうか?と考えてばかりいた。


学校は、2年半専門学校へ行った後だったので3歳歳下の子たちと同級生。

それでも、わたしみたいに年齢が違う人や更に50,60代の方たちもいて
元々たくさんの人や集団での生活が苦手なわたしは歳下の子たちの集団には
上手く馴染めなかったけれど、それでも慕ってくれる子や逆に歳上の先輩方や好きな先生にお世話になってじぶんの心地よい場所を見つけてそれなりに楽しんだけれど
どこか満たされないそして奥底に孤独を感じていた。


いずれは自給自足をしながら生活をしたい。という想いもあって
学校の先生に交渉し、同級生だけれどお父さんよりも歳上の実は社長の方に
教えてもらいながら学校の繋がりで借りれた土地で野菜作りもはじめた。
そのときにつけたサークルの名前は何故か、*トマトクラブ*だった。



住んでいたアパートは通っていた短大の女子学生限定のアパートで
そこで一緒に住んだ同級生と過ごすじかんも好きだった。


お互い部屋を行き来して
悩みや想いを話したり聞いてもらったり。



お好み焼きが好きだったわたしは
よくみんなでお好み焼きパーティーをしたり
おむすびを結んでみんなを迎えた。


誰か、悩みや重い気持ちをもってやってきても
おむすびはホッとそのココロを解いてくれる存在のように感じ
これがわたしの役割のようにも段々と感じるようにもなっていた。


新米が届くと学校へ米をもっていって
研究室の炊飯器で炊いて、塩むすびをよくみんなに振舞ったりもした。




そんなある日
家の近くにある毎日のように通っていた図書館で一冊の本に出逢った。


**おむすび**といえば、一番に名前が挙がる
佐藤初女さんの本だった。


パラっとページをめくり
なんだかこれは大変なものを見つけてしまったかも。と
借りもせずに近くにあった椅子に座って一気に読み上げた。


放心しながらわたしの中から湧いてきたのはとてつもない悔しさだった。ー



わたしのしたいことをもうすでにやっているし…
しかももうすでに何十年も前から。



わたしの中にうまれる誰かに対する悔しさは
じぶんの中にある想いをすでに実現していることへの尊敬と
それをじぶんがまだやり切れてないもどかしさ。
それと同時に、じぶんの中にその可能性の種が眠っているサインだとも。ー



とにかく、悔しくって悔しくて
それと同時にマザーテレサを尊敬していたわたしは
やっぱりわたしは人に尽くして生きようと道をみせてもらった気がした。



栄養士になりたいという想いの根本や
じぶんの特質は人に尽くしサポートすることだと思いはじめていたので
初女さんの姿はそのわたしの想いを後押しした。


さらに、仙台に住んでいたときに通っていた
スピリチュアルやヒーリングの勉強会は元々、東京が本部だったので
週末には東京へ学びに出掛け、ヒーリングで人を癒すこともじぶんの役割だと感じはじめていた。



人の為に、人に尽くし、人に愛を届け生きよう。
そう、生きると決めた頃だった。



短大に行って西洋の栄養学について学ぶも
ざっくり言ってしまえば摂るべき栄養素の数字を合わせればいい。という考えがしっくりこず、だってその食べ物の質は?ひとりひとり体質が違うから摂り方も違うのでは?と疑問に思うことが多く卒業論文では東洋と西洋の栄養学が統合していったらいい。というようなことや、東洋の栄養学の本をよく図書館で読んでいたりした。


けっきょく、入学前から惹かれ実践していたマクロビオティックの食事を作るようなお店で働きたい。と東京にはそんなお店はたくさんある。
イベントで素敵なお店の方に出逢ってウチで働く?と言われたこともあったけれど
それもやはりバイト。


やっぱり栄養士で働くなら安定して働けそうだなあ。
サポートするなら誰をサポートしたいだろう?

元々、栄養士になったキッカケのスポーツ栄養士だったが、かなりの狭き門。
なかなか最初からスポーツ栄養士になることは難しそう。


子どもが昔から好きだったわたしは
子ども達の食事に関われたら。と思うようになる。

通っていた学校は当時、始まったばかりだった
栄養教諭の免許もとれたので免許を取得し教員採用試験を受けることも
考えたが募集している県はほとんどない。宮城県も同様になくてあったとしてもかなりの狭き門。


しかも、わたしが伝えたいこととは違うことを伝えなくちゃあいけない。
安定しなくてもじぶんの好きなことをやるか、安定して気持ちは妥協するか。


何かを決めるときに
大きな影響はいつだって両親の声でそれをいつも越えられなかった。
東京で就職したかったけれど、変わらない両親の近くにいてほしいという願い。
それだったら仙台で好きな仕事でバイトでもいいよ。と父は言ってくれたけれど
何を今さら。わたしの気持ちはすっかり両親を喜ばせるには仙台で安定したところを。ーという頭になっていた。


まあ、縁あるところに決まるでしょ。と
就職活動もそこそこだったわたし。

なかなか決まらず冬を迎える頃、
子どもの食に関わる仕事。で調べていると児童養護施設という言葉を見つけた。


親からの虐待や親の金銭的な理由などで
親と一緒に暮らせない子どもたちが家のように生活している施設らしい。


元々、世界の貧困や孤児への想いを馳せていたわたしは
ここだ!子どもたちのココロをごはんで少しでも温め、癒したい。

と求人しているところを探した。


児童養護施設の求人は保育園などと比べるとすごく少なくって見つけたのは神奈川だった。

ダメ元で、そして決まったらもう両親も認めるしかないだろう。と受けることに決めた。そこは、施設の中に寮もあるのでほぼ子ども達と一緒に時間を共にする。

調理だけの仕事ではなく、
卒業と同時に取得予定だった栄養教諭の教員の免許がそこの受検資格となり
栄養士や調理師というより保育士さんや学校の先生とともに子どもと共に暮らし
親の代わりとなって教育することでもあった。

せっかくならそれくらい深く関わりたい。と願ってもない仕事だったが
母は、麻美は感情移入しやすいし心配。と言われたりするも結局は不採用となった。



なかなか決まらない就職先。
なんとかなるでしょ。とのんきなわたしだけれど周りは何やら心配そう。

あまり、気も向かず出掛けた埼玉のハローワークで見つけた
仙台の児童養護施設の求人。おお!と思うも募集しているのは調理員。



短大にまで行かせてもらって栄養士の勉強をしたのに調理員だと
また両親をがっかりさせるかなあ。と思うも
もう、仙台で安定するだけいいと思ってくれーー!ともう受かる気しかせず
確か年末に面接に行き年明け10日ほどで採用の連絡をもらった。

そこは市から委託されている施設なので
調理師としてはなかなかない、夏と冬のボーナスをもらいながら勤務できることとなった。よしよし。


よし、ここで最低3年働いて
親孝行しながらお金を貯めて世界一周に出掛けよう。
もう、文句は言わせない。


そう決意して仙台に戻り
実家に暮らしながら2010年春、働きはじめた。