●●ちゃぶ台から世界をひっくり返す●●

〜ちゃぶ台アーティストasami〜

いのちの美しさ*

 

 

人は強い。

でも、人は、強くて弱くて、強い。だから、好き。

 

 


人は美しい。

でも、人は、美しくて醜くてズルくて美しい。だから美しい。

 

 

人は孤独だ。

でも、ほんとうは繋がっていて
だけどそんなこと忘れて孤独に明け暮れて。
ずっと触れていた冷たい床が、
実は柔らかくて
地球中に敷きつめられていたじゅうたんだったとふと気がつく。
いつだって、ひとり。死ぬまで孤独。

でも、悪いけどあなたの下にじゅうたんはある。
そこらじゅうと繋がってしまっている。

 

 

 

 

人は美しい。

すべての悲しみ、憎しみ、孤独を
包み込めるチカラがある。

すべてと共に進んでいけるチカラがある。

 

ただ、美しいだけじゃあつまらない。
すべてを、すべてを、味わいたくてやってきた。

 

そのすべてを包み光に還していけるチカラー

 

 


それが人間の美しさ

 

 

その美しさを、強さを、
わたしは信じている。

 

 

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じぶんを生きる。は好きなこと、わくわくすることだけじゃあない。

いのちを輝かせて生きる

 


好きなことをする、
わくわくすることだけじゃあない。

 

ーーー


好きなことをして生きていきたい。
わくわくだけで生きていきたい。


そう決意して
5年前、仕事を辞めた
わたしもひとり。


当時、
今から思うと
その好きなことすら
全くわかっていなかったし
なーんのあてもないのに
なぜかそれで食べていける!
と根拠のない自信をもって
突き進んでいった
あのときのじぶんを褒めてあげたい。とつくづくおもう。

 


そして今、
好きなこと、わくわくすることだけで生きているかというと
そうでもない。

と言うと
語弊を招きそうなのだけど

今、幸せだ。と言い切れると同時に
当時よりじぶんじしんを生きている。ということは間違いなくいえる。

 

というのも

ほんとうのほんとうのじぶんの歓びやわくわくすることは
表面的にみると全く好きだと感じたりわくわくするものではないことが
ほとんどだからだ。(わたしの場合はほとんど。。)

 

仕事を辞めた当初は
目の前に感じるわくわくすること
好きだとおもっていた
人の役に立つことや地球のためになることをやってきて
じぶんの使命だとおもっていたけれど


常に不足感やすぐに違和感を感じてしまい
次のなにかを探していた。


そうして
セミナーや講習などお金やじかんもつかったけれど
さあ、いざやりましょう。となると
何かが違う。とパッとすぐに手放してしまった。


パートナーのとみひでからは
飽きやすいと呆れられていたし
お金もじかんも掛けたんだから
それで少し稼いでみたらいいのに。と言われたけれど
じぶんの真ん中となにか違うと
できなくなってしまっていた。


そんなことを繰り返しながらも
ごはんを作ること、食卓をみんなで囲むことだけは
ずっと続けていた。

 

それだけじゃあない何かが欲しかったのか
飽きやすいと言われていたけれど
根底はずっと変わっていなくて
みんながじぶんに還りいのちを輝かせられる何か。を
探していたけれど、ごはんだけではそれはできない。と
まだまだごはんの食卓のチカラをじぶんじしんを信じられていなかったのだとおもう。


それと同時に
食卓を囲むことはもってのほか
ごはんを作ることも好きなのかよく分かっていなかった。


中学生からごはんを作り始めたわたし。
食関係の専門学校や短大もださせてもらい、
そんだけしてもらったなら
食関係の仕事をしなくちゃ。とか
長年やってきたことを認めるために
『好き』と言わなくちゃあいけない気がしていた。


まして、
食卓を囲むことは嫌いなことに
間違いないのなら
ごはんを作ることだけは好きでいなくちゃあいけない。
とおもっていたようにおもう。


ある日、
尊敬する人が我が家でやったイベントにきてくれて
ごはんを食べながら
『麻美ちゃん、料理するの好き?』と聞かれた。

好き、、なのかなあ?
好き!と真っ直ぐに答えられないじぶんへ疑問と
そんなこと聞くなんてごはん美味しくなかったかな。と悶々と考えてしまった。


それから
好き。でなくてもいいのかも!と
じぶんに許すことにした。


そもそも
料理が好き。というより
食べることが好き。というのは確信をもっていえて
じぶんが食べたいものを食べたいがために料理もはじめたのだ。


料理好きなの?と聞かれると
この気持ちを正直に答えるようになり
だいぶ気持ちも楽だったようにおもう。


そうこうして
ほんとうに、ごはん作ることが好き!
と言えるようになったのは
実はここ1,2年の話。


昨年は
その想いが溢れ留まることを知らず
とにかくごはんが作りたすぎて

わたしに食材を与えてくれーー!
追いつかないからみんな食べてくれー!

な特に大きなビックウェーブ状態が
何度かあった。

 

そうして、
ようやくごはんを作ることは
わたしの好きなことリストに仲間入りしたわけだけど

好きなこと、わくわくすることで生きていく。と
決めたにも関わらず
好きか分からない料理を続けてこれたのは
学校に行かせてもらったから。という後ろめたさだけでない


直感的に
何かこれは(いい意味で)やらなくちゃいけないことだ。と
感じてきたからだ。


食卓を囲むことも同様で
大嫌いだったそれを
ずっとやってこれたのも
なにか奥底にある願いを感じてきたからだとおもう。


昨年はじめに、
これはわたしのいのちからの願いだった。
とじぶんの深いところから感じることが
できたけれど
感情的に嫌だとおもうことはまだある。

 

前回のブログで書いた
歌うことも同様だ。


そして、今やっている
文字を綴ること。
想いを伝えることも。

 


ほんとうにやりたいことの
ほとんどを『嫌なこと』で封印してしまっている。

 

 

 

それは

その欲求が叶えてあげられなかったり

否定されてしまって

ないふりをした。嫌いなふりをした。

 

そうしたら、傷つかなくていいから。

 

 

 

でも、
それってほんとうにやるべきこと
ってどこかでじぶんは知っていて
そして待っている。
もう一度、それを解凍し
ほんとうの願い、歓びを
思い出されることを。

 

 

 

遅すぎることはない。

ちゃあんと、よきときまで

そのトキまで守られてきたんだ。

 

 

 

 

と言っても
嫌だ。という感情は
最初はつきまとうから
怖いんだよね。嫌なんだよね。

 

 

 

 

なんだか
人間はどこまで
挑戦したがりな生きものなのだろう。と

嫌なことばっかりで嫌だなあ。とつくづくおもうし
もっと楽だったらなあ。とおもうのだけれど、
それはそれでつまらないんだとおもう。

 


いのちはいつだって
挑戦したがっているー

 

そして
ほんとうの願いを思い出されるのを
待っている

 

 


今、とてつもなく
じぶんの中にある愛をみんなと分かち合い、じぶんがいて

もっともっと、世界の人の愛を信じてみたいじぶんもいて


それをどうやってしようかな。とおもうたら
出てきた3つがこれまたイヤ〜なことなのである。笑


そのひとつが
コトバで表現すること。
このブログを書いていることも
じぶんにとっての新たなる挑戦。


イヤで苦手で仕方ないことなのに
嬉しいコメントや
直接のお言葉がもうもう、嬉しすぎて
感激…というより
ほんとうに、できないこと。としか
おもってなかったので
なにが起きているのかよく分からなかったりする。
不思議でたまらない。笑

 

 

他のふたつも
これから、放って参ります。

 

 

 

 

ひとつずつひとつずつ
その願いを叶えてあげる

今は願いだなんて思えないことも
いつか分かる

 


叶えてあげる
いのちの願いを


そうしたら
願いは喜んで少しずつ
願いに、歓びに還っていくから


信じてあげる
すべてを思い出すそのトキを

 

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いのちのパートナーシップ

きょうは
久しぶりに
仙台に帰り
お招きいただいた
結婚式に出席



式に向かいながら
結婚ってなんなんだろうね。結婚式ってなんなんだろうね。


とパートナー
とみひでと
話ながら向かう。



ここさいきん、
仲間とも
パートナーシップについて
話す機会がおおかった。



パートナーというと
一対一の
男女のことを
いうことが
多いけれど


きょうの
結びの場も
感じ尽くした上で

すべてのいのちとの間にパートナーシップがある。



わたしは感じている。
ということに改めて
気がついた。


し、
その
ひとつひとつ
ひとりひとりとの
パートナーシップを
より濃く、

いま、パートナーとみひでに感じているパートナーシップを波及させていきたい。と願っている。





実は
わたしたち
昨年秋に
[別れよう]という話をして
いま現在もそのまま別れている最中である。笑



それは
二人の結婚記念日を
素敵な仲間たちに
お祝いしていただいた後。



その日は
死ぬほど嫌な
人前で歌うこと。に
とみひでと挑戦したわたし。


ほんとうに
これはわたしにとって
こわくて仕方がないことで
二ヶ月前に歌うことが
決まったものの
ほぼ二ヶ月間
それが嫌でいやでたまらなかったし、その話題になると作り笑いもできないくらいに顔がひきつる。

怖すぎてカラダも
拒否していた。





昨年秋は
世界や人への不信感
満載で多くを生きてきた

わたしの中で
世界への信頼感が
よりぐぐっと高まっていた時期でなにか臨界点を越えたのだろう。


一週間ほど前に
急に歌ってもいいかも。
とおもえるようになった。



二ヶ月たっぷりあった
練習期間は
結局たった一週間。



そして、
歌った当日。



どきどきどきどきしながらも、なんと笑顔も後々写真で見たらでるくらいで
うまくもなんともないのだけれだれど、出しきれたそれはとっても心地よくて


みんなが
やさしくあたたかく
見守ってくれて

この世界の優しさをより感じ、この世界への安心感をより高まったたいせつないちにちとなった。



もう、ほんとうに
満ちみち足りた
この日。



そんなこと言うつもりなんて一ミリもなかったし
こんな満ち足りた気持ちだったのに感じてしまった、
別れるひつようがあること。
おお~なんとこんな日にー!



思いつつ
これ、きょう
言わなきゃダメなやつやー。。





とみひでに
わたしと別れる気ある?

と聞いてみた。




薄々感じていたのだけど、


パートナーは
足りない部分を補い合う。なんていったりもするけれど、そういうことじゃあなくて


二人が一緒にいることで

それぞれが
本来、
いのちを生きるために
やるべきことを
しなくてもなんとか
成り立ってしまっているものだから、それに甘えてしまっているのではないか。と感じていた。




わたしは表現することを。
とみひではまず、じぶんじしんを愛してたいせつにしていくことを。





わたしたちは
いのちを生きることを
決めているから
本来、望んでいるから


このまま
それを無視してしまうと
きっと強制終了がくるとおもうんだよね。



別れなくても
それができるなら
いいんだけど、、。



そう伝えると



面白そうだね、
別れてみようか。



と、
とみひで
さすがの一言。



別に離婚するわけでもなく
ルールはどうしようか?と話したけれど
けっきょく特になにも
決めることもなく
一緒に暮らしながら
別れてみてた。



でも、
その
別れようという
言葉を発しただけで
お互いより自由さを感じたから不思議だ。



わたしたちは
普段から
かなりお互い
気持ちも
実際の行動も自由に
することを許していたはずだけれど
それでもどこか
無意識に
夫婦という枠に
なんかしらの義務感や
縛りを感じていたのかもしれない。



ただの
ごっこといえば

なのだけど

周りからみたら(本人たちも?)
別に別れてるようには
感じないけれど
それがあったから
より無意識に
やるべきことに
意識が向いたのか
お互いそれに
向き合い、実践。


それぞれが
じぶんに還る課程を
体験しながら
前とは
違うパートナーシップのカタチをいま体感している。



こんな風に
ひとりのパートナーとの
パートナーシップでも
日々、瞬間しゅんかん
そのカタチは刻々と
変わっていくし
もっと大きな期間での
在り方も変化していく。


それが、
一時、距離が離れる場合や
一緒にいることが
終わることもある。



それがさ、
ひとりに対してのものではないとおもうのだよね。


それが 
すべてのいのち
ひとりひとりとパートナーシップを結んでいる。


ひとりひとりとの
距離感や愛のカタチが違うだけ。




パートナーって
よりじぶんじしんを知り
それぞれがじしんに還るための鏡のような存在。


中でも
より近く濃く
向き合い気づき合う
いちばん近い
いわゆる
[パートナー]の存在もありながら(わたしにとってとみひではそう)


それだけではない
わたしたちは
すべてのいのちとの
対話のなかで
じぶんじしんを知っていく。





仲間との対話はもちろん

ネットで一方的にブログを見る関係や

通っている歯医者さん

電車で隣になった人

お店の店員さん

見知らぬ、着物が綺麗ね。と声をかけてくれた人


何故か友達の結婚式で
毎回席が隣になる知り合い





実は
誰でもない
じぶんじぶんが
誰かを通して

あの手この手で
じぶんじしんというものを気づかせようとしている。



だから
わたしたちは
出逢う誰かを通して
じぶんじしんにより気づいていく。



わたしたち
人間はほんとうに
面白い存在だとおもう。




じぶんを忘れて
この世界にうまれて

この世界のすべてをつかって、じぶんじしんを知る。という大冒険をしている。







人との出逢いの中で
じぶんの中に
うまれたものを
見つめてごらん。



歓び、悲しみ、怒り
共感、違和感-...



じぶんのなかの
なにがそう反応しているのだろう?
どうしてそんな想いがうまれるのだろう?



そうやって
ひとつひとつの
ひとりひとりとの
パートナーシップのなかで
わたしはわたしに気づいていく。

わたしに還っていく。





わたしが
とみひでと別れよう。とおもったのはひとりとだけのパートナーシップだけではない
すべてのいのちとのパートナーシップを結びたい。とおもったから。


だけど、
結びたい。というより
すべてはもともとひとつで
すでに結ばれていてそれに気がつくだけ



そして
目にうつるもの
すべてがじぶん。


目の前に存在する
すべてのいのちがじぶん。



すべてのパートナーシップはじぶんじしんとのパートナーシップ






とみひでと
向き合い育んだ
パートナーシップは
わたしの宝物であり
おおきなじしんである。



そのパートナーシップを
カタチは違えど
ひとつひとつの結びの中に
静かに、優しく広げていきたい。


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すべてのものはメッセージ~♪

ここ数週間
歯医者に通って
せっせと歯の治療をしている*



きのうは
詰め物をしてもらい
それの噛み合わせを
合わせるのに

先生と助手の方、
わたしとでその高さを合わせるのに超微調整しているのが
なんだかこの世界で

という

いのちの型を知っていくのと同じようでなんだか
おもしろかった。


髪の毛
一本、二本分とかの
超微妙な
加減を削っていて
それだけでも
全く噛み合わせの
感覚は変わってくるそう。


しかも、
口の中は
手よりもその感覚が
繊細らしい。




虫歯なんて
ならないほうが
よいけれど


虫歯になって
それを削ったり
抜いたりすることが
それまでの*じぶん*が
死ぬことなら


ほんとうの願い、
じぶんを
生きていくためには
その願いや
ほんとうの*じぶん*
を知っていくことがひつよう。

それが
あたらしく
はいる詰め物。笑



まずは
そこの型がひつよう。


どのくらいの
深さ?大きさ?形?なのか。





全くじぶんじしんがわからない、
なにが好きか嫌いかも
わからない状態でも


ちいさな頃の
歓びをおもいだしていくことや



とりあえず
目の前に
あることに
飛び込んでみることや
起こった出来事に
対してじぶんの中に
うまれる感情やその奥底にある願いを見てみるとすこしずつ浮き彫りになってくる



このとき
新たな型に気づいていくと
(虫歯のときの)
じぶんの型はこれだ!
とおもっていたものと
全く正反対!
みたいなことが
起きたりするから面白い。




わたしは
昔は
じぶんを犠牲にしてでも
他人に尽くすことが
じぶんの在り方。


だと
思い込んでいた。


人のために
人のことをする。

人に尽くすことことそが
じぶん。だとおもっていたのだけど



なんと
真正反対?!



いまの
わたしの在り方の
根底は

わたしがわたしを

生きたらすべての
為になる*というスタンス。



誰かのためになにかする。
というのでなく
じぶんを生きることことそが誰かの、みんなの為になっていく。


これは
その人ひとりひとりの型というより、すべての人の生きる上での根底だとおもっている。



親からの影響や
教育、生きていくなかで
そもそもの型とは
全く違うものを
いれようとしてしまっていたのかもしれない。


そりゃあ、
形が違ければ
はいらなかったり
隙間があって
虫歯になってしまう..。





そうして
じぶんの型がとれて
あたらしくはいる
詰め物(じぶん)の形もわかってくる。


そうしたら
実際に詰めてみる。


窮屈さ
高さ噛み合わせを
調整していく。



ここ数年、

というものの

本質がわかった!!

とおもったら


あら、また分からなくなった。そしてわかった!

の繰り返しで
今おもうと
あのときのじぶんは
じぶんをわかった気になっていたけど
まだまだ知らなかったなあ。


と常々おもうように


やっぱり

を知り

探求していくことに
終わりはないのだろう。



だけれど、
歯の高さが
整って
よくものを噛める。


じぶんの傷を癒し
マイナスから
ゼロのフラットなところになり
そこからさらに
世界にじぶんを活かしていく。


その
フラット、ゼロに
整える
ある程度のラインがあると
わたしはおもっている。



世界に
じぶんを表現しながら
世界からの
反応やじぶんの中にうまれる感情を感じながら
さらに細かくじぶんを知っていく。




あの、
歯の
高さを整えるのに
赤い紙を噛むのもそうだなあ。とおもって。笑



その赤さが
高さがある
歯の部分に
ついて
それを先生と
助手の方が
見ながら削っていく。


わたしは
どんな感じか
感覚を伝えていく。




世界は
じぶんの中の
すべてをうつしたものだから

歯が赤くなることイコール

はい、ここいらないですよー。ここもっと削りましょう~。

と世界の現象が
他人がすべてを教えてくれる。
そして、じぶんの世界に対する反応もすべてを教えてくれている。



じぶんだけで
じぶんを知っていくのではない。


すべてがじぶん。
すべてがじぶんがなにものかを教えてくれるメッセージ。


いや、じぶんじしんが
すべてをつかって
じぶんを知るためのメッセージを世界中に散りばめている。



気づくのは
いつだってじぶん。






なんか、ものすごく
わかりづらそうだけど
歯医者さんにいって


じぶんを生き
じぶんを知り
じぶんを形づくる行為と
一緒だなあ。とおもしろかった。というはなし。





*


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あたりまえをひきはがす

じぶんのなかにある

あたりまえ**すぎる

感覚をじぶんから
えいっ!と引き剥がして
客観的にそれを
見つめてあげること。



が、
さいきんの
テーマだったわたし。


あまりにも
あたりまえすぎるものって
じぶんと一体となっているから
ある意味じぶんの中に

のか分からなくなってしまう。


し、
引き剥がしてみたところで
じぶんにとっては
ごくごく自然なことなので
なんの特別なことでも
ないとおもってしまうのだけれど、実はそれがその人の
ものすごいチカラだったりする。...のかもしれない。
(←すこしずつ感じてるこれを圧倒的に感じたい)



これが
テーマ。といいながら
それをなかなか見つめることができずにいたのだけど




数日前

わたしの中に(人に対しての)愛はあるのだろうか?**

と強烈に
じぶんに対して
疑問をもってしまう
瞬間があり 
じぶんの中を覗きこんでみた。





愛なんてまだまだ
わからないし
語れなんてしないのだけど


そのとき
感じたのが




じぶんの中に*在る*誰かへの愛も

じぶんの中から外にだし相手へ*表現*することもどっちも愛だな。

ということ。





前は目に見えての動きがない。
でも確実にそこにある。


後者は言葉や行動、形として表現されるので分かりやすい。
人から見ても、受けとる側もわかりやすい。




わたしは
圧倒的に前者の愛の
表現(実際はされていない) を
用いていることに気がついた。


そして、
後者の表現は
多くはごはんに乗せているのだけど、それ以外の方法でわたしの外にそれらがでたがっているのを感じる。


たぶん、
そのじぶんが
これからよりしたい
方法での表現をじぶんが
できていないから
じぶんの中に*愛がない*と感じてしまった。

のと

じぶんの中に
あたりまえに在る愛を
じぶんがちゃんと
見つけて、認めてあげられてなかったのだ。



パートナーとみひでに
わたしの中に愛あるとおもう?
どんな愛だとおもう?
わたしはこうおもってるのだけど。


と聞くと


少なくとも
麻美の周りにいる
大切な人はあるとおもってるとおもうよ。


そして
わたしの愛のカタチをこんな風に表現してくれた。

そこにないとおもうくらい、自然とそこに在る絶対的な愛**



うん。うん。
わたしのなかに、
ちゃんとあった!!じゃん。


そして、
やっぱり

がつくのね。笑


  


じぶんの中に
ちゃんと*在る*ことを
認めてあげたら
それがいろいろなカタチで
わたしの外にでたがってきた。

表現されたがっている。



そっか、

ことを認めてあげたら
しぜんと溢れてくるのかあ。


ちゃんと知ってる、
この溢れてくる感覚。



わたしは
基本的に昔から
じぶんのことを
冷たい人間だと
思い込んできたので
気がつくとそこに
じぶんを置いてしまう。



そうしたら
じぶんの中にある
あたたかさも
認めてもらえなくて
そりゃあいじけてしまうわ。



ちゃんといるね。って見つけてあげたらはりきって溢れだす。






この溢れたものを
みんなと分かち合うことを今までと違う方法で感じたいじぶんがいる。



ごはんではたくさんやってきた。




違う方法..
じぶんが嫌だなあ。とおもってきたことだから嫌なんだけど、これ。とわかっている。


嫌なことばかりで嫌だなあ。笑







だしたい、今。



すべてのいのちとパートナーシップを結ぶ覚悟と共に
だします、今。

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じぶんを信じる

じぶんを信じる

 

 

 

きのう、
友人との対話のなかで
過去のじぶんに対して
これまでになかった
新たな視点での気づきがあった。

 

 


以前にも
書いたが
実はわたしは
食卓を囲むことが
苦手で
過去、給食のじかんが
大嫌いだった。

 

 

 

 

ずーっと黙り込んで
ひたすら
食べることだけに
集中。

 

 

 

基本的に
人が怖くて
じぶんというものを
中高と続けた陸上以外では
全くだせていなかった当時。

 

 

 

 

 

実は
ごはんを食すという行為、
共に食卓を囲む行為が

**心が開く**


ことを
無意識に知っていたのでは?
と気がついた。

 

 

 

 


だから
*じぶん*に自信がなくて
出すことが恐怖だったわたしは
じぶんの心が開いてしまう
そのトキを怖がっていた。

 

 

 

 

知っていたんだ。

ごはんのチカラを
食卓のチカラを
いのちのチカラを

 

 

 

 

 

 

だからこそ
怖かったし

誰よりも
いのちを開いた
じぶんで繋がることを求めている。

 

 

 

 

 

 

 


わたしは
長い間
じぶんに自信がなく
基本的にじぶんは人に嫌われている。と
おもって生きてきた。

 

 

 


この数年で
周りの大切な人たちの
お陰もあって

じぶんへの信頼を
積み重ねてきたけれど

 

 

 

 

もっともっと
じぶんを信じられると。

まだまだじぶんを
すべてを信頼できる。

 

 


この深さに
生きている間きっと終わりはなく
どこまでもいけるのだろうけれど。

 

 

 

 

 

 

時折
じぶんの存在や
じぶんのしていることや
それと世界の繋がりを
信じられていないじぶんがいることに気づくのだけど
今回もそうだった。

 

 

 


今回の気づきによって
わたしがいちばん

じぶんのごはんを舐めていた。
食卓のチカラを舐めていた。と気づかされた。

 


 


5月のはじめに
楽天ヤンキース田中将大投手の特集を
テレビで観て受け取ったメッセージ

 

*じぶんを信じてフルスイング*

 

 

 

…フルスイングかあ〜〜笑

 

もうひとつ深く
じぶんじしんを信じること

 

 


そしてフルスイングが求められている、今。

 

 

 

 

 

 

…どきどき。

 

 

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愛されたい、すべてに愛し尽くされたい



きょうは、ゆったりとした1日を過ごして
仲間と語っていたのだけど

気がついたらその部屋がギターの生演奏にて
そこにいたそれぞれの好きな歌のメドレーがはじまっていた。



ひとりひとりが
じぶんで在りながら歌っている姿は
見ていて喜びに溢れていて
とても心地よくて
時々わかる歌がでると口ずさみながら楽しんだ。



歌は
聞いていた頃の感情がわーーーっと
溢れてきてその頃にタイムスリップするから不思議だ。






ミスチルの**しるし**が流れはじめる。ー


この歌は確かレコード大賞を獲ったときに
テレビを観ていて、その圧倒的な何かにものすごく感動した記憶がある。




そして歌詞も大好きだった。





ー色んな角度から君を見てきた
そのどれもが素晴らしくて僕は愛を思い知るんだー





人から、あなたってこうだよね。と決めつけられるのが嫌いで
無意識に周りが思うそれを生きてきてしまっていたわたしは


人には色んな側面があって、今目の前に感じるあなたは
そのひとつでしかなくて、どのあなたもすべてのあなたを受け止め愛そう。
と思ってきたけれど



実はじぶんがいちばんそれを望んでいた。



どんなじぶんも、どうであっても
じぶんのまんま
ただただ愛されたかった。




そんな、
コトバにもしたことのなかった想いが溢れてきた。





愛されたいー
ずっとずっと願ってきたその想いは
この6年間で知らぬ間に消えていた。



それは
すでにそこに愛があったと知ったから。
すでにもう十分過ぎるほど実は愛されていたんだ。と知ったから。
そして、愛されていいんだ。と分かったから。





ー愛されたいー


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そう描いてみたけれど



昔のようにないものを求めているのではなく
逆に、満ち溢れているような感覚がそこにはある




あのトキのじぶんが
またひとつ、姿を変えてやってきて
わたしじしんになった




すべてを愛し尽くしたい。
そうおもうことはあるけれど
すべてから愛し尽くされるーー



すでにたくさん愛されているのだけれど
それをもっともっと、受け取れる。とおもった




受け取ってやろうじゃあないか。

愛し尽くされてしまおうじゃあないか。と