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●●ちゃぶ台から世界をひっくり返す●●

〜ちゃぶ台にのせるスナオな想いを結ぶ〜

愛されたい、すべてに愛し尽くされたい



きょうは、ゆったりとした1日を過ごして
仲間と語っていたのだけど

気がついたらその部屋がギターの生演奏にて
そこにいたそれぞれの好きな歌のメドレーがはじまっていた。



ひとりひとりが
じぶんで在りながら歌っている姿は
見ていて喜びに溢れていて
とても心地よくて
時々わかる歌がでると口ずさみながら楽しんだ。



歌は
聞いていた頃の感情がわーーーっと
溢れてきてその頃にタイムスリップするから不思議だ。






ミスチルの**しるし**が流れはじめる。ー


この歌は確かレコード大賞を獲ったときに
テレビを観ていて、その圧倒的な何かにものすごく感動した記憶がある。




そして歌詞も大好きだった。





ー色んな角度から君を見てきた
そのどれもが素晴らしくて僕は愛を思い知るんだー





人から、あなたってこうだよね。と決めつけられるのが嫌いで
無意識に周りが思うそれを生きてきてしまっていたわたしは


人には色んな側面があって、今目の前に感じるあなたは
そのひとつでしかなくて、どのあなたもすべてのあなたを受け止め愛そう。
と思ってきたけれど



実はじぶんがいちばんそれを望んでいた。



どんなじぶんも、どうであっても
じぶんのまんま
ただただ愛されたかった。




そんな、
コトバにもしたことのなかった想いが溢れてきた。





愛されたいー
ずっとずっと願ってきたその想いは
この6年間で知らぬ間に消えていた。



それは
すでにそこに愛があったと知ったから。
すでにもう十分過ぎるほど実は愛されていたんだ。と知ったから。
そして、愛されていいんだ。と分かったから。





ー愛されたいー


f:id:ASAMUSUBI:20170302224546j:image



そう描いてみたけれど



昔のようにないものを求めているのではなく
逆に、満ち溢れているような感覚がそこにはある




あのトキのじぶんが
またひとつ、姿を変えてやってきて
わたしじしんになった




すべてを愛し尽くしたい。
そうおもうことはあるけれど
すべてから愛し尽くされるーー



すでにたくさん愛されているのだけれど
それをもっともっと、受け取れる。とおもった




受け取ってやろうじゃあないか。

愛し尽くされてしまおうじゃあないか。と







物語〜序章その4

 

児童養護施設に調理員として就職して1ヶ月も経たないうちに
じぶんの想いとの違和感を感じ始めた。


親と様々な理由があって暮らすことのできない
子どもたたちに愛をもってごはんを作りたい。と
思って働き始めたが、じぶんが作りたい理想のごはんとはかけ離れていた。


できるだけ自然な食事をじぶんじしんも食べたいし食べて欲しいと思って
いたわたしにとって、冷凍食品や添加物をつかうのは当たり前
野菜もきっと農薬がたっぷりかかったであろうものを使わなくちゃいけない
現実を目の当たりにして愕然とした。

 


でも、世界一周のためのお金も貯めたいし…


子どもたちへあたたかなごはんを届けたい。という想いは根底にあったので
この施設のなかでできることをやってみようと決めた。


施設では、2歳から18歳の子どもたちが100人弱が暮らしていて
その子どもたちと子どもをみている職員さんの食事をつくる。

 


朝は全員食堂で食べて、学校や幼稚園のある子たちはその給食やときに
お弁当をつくってもたせる。夜は家族のようなユニットになっている部屋に
作ったものを届ける。


この施設で生活しているので基本的な食事は
わたしたち調理員のつくるごはんとなるので
子どもたちのカラダをつくる上で重要なのは言うまでもない。


わたしたち調理員は、栄養士さんの作った献立に沿ってごはんをつくっていく。
日々のごはんなので、専門的な凝った料理というより
家庭料理でだすようなものがほとんど。


献立表に使う食材や調味料が記してあって
それを実際の形にしていく。


栄養士さんがとても寛容で素敵な方で
みんなそれぞれの味があると思うから
(一応調味料の分量なども載っているのだが)
最終的な味付けは3人いる調理員さんそれぞれに任せる。と言ってくれていた。

 

なるべく、子ども達のカラダに安心なものを使いたい。と
伝えるも栄養士さんもその想いは山々だが
予算や、仕入れ先が何十年も付き合いがあって
じぶんのチカラだけでは変えられない。と言われてしまった。


他の昔からいる職員の方にも探りをいれたが
どうやら使うもの自体を変えるというのは難しそうだ。

 

それならば
あるものでできるだけやってみようとあれこれ工夫をはじめた。

具材の多い汁ものは野菜を重ね煮して野菜の旨味や水分を出してみたり
甘さがほしい料理のときは玉ねぎをじっくり炒め煮や水煮して砂糖や添加物をつかう量を減らした。


それでも、他の調理員の人は
気にせず調理していてそれを子どもたちも美味しい!
と言っていたので意味があったのか、
わたしのただの気休めでしかなかったのかもしれないけれど
じぶんなりにできることをやっていった。

 

このとき、中高校生の子どもたちに
おむすびを毎日のように結んでいたが
食べ盛りの男の子たちだし!と
張り切って特大のおむすびを結んでいたが
さすがに大き過ぎて食べられない。とクレームがきた。笑

 

あのときのでっかなおむすびの感覚もけっこう好きだ。


このとき、パートできていた
おばちゃんに塩を手につけるにでなく混ぜ込むといい。
と教えてもらい、確かに全体に馴染んでいい。というところから
わたしはごはんに塩を混ぜ込むスタイルを続けている。

 

そんな風に限られた枠のなかで
できる限りのことはしていたが
すぐに、もっと自由にじぶんの作りたいごはんを表現したい。
と思うようになった。

 

仙台市内でなにかいいところはないか調べていると
シェアカフェという、キッチン付きのレンタルスペースを見つけた。

ここだ!と思い
当時、やってみたいと思っていた
**おむすびカフェ**の構想をもって早速連絡をもって出掛けた。


有難いことに、ただ貸すだけというより
わたしの想いや現状をいろいろと聞いてくれて
当時、学生時代に過ごした友達しかいなかったわたしに
集客もすぐには難しいだろうから、すでに常連となってそこを借りて
週替わりシェフみたいにいろんな人にごはんを作ってもらってる人がいるから
その人と繋がったらいいよ。と言ってくれた。


そうして、トントン拍子に話は進み
もう忘れてしまったけれど
毎月第何曜日かにわたしのごはんを作らせてもらえることとなった。



それと同時に
学生時代の友達だけじゃあなくて
一緒に夢に向かったり何か素敵なことをできる仲間が欲しいと思いはじめていた。


埼玉に住んでいたときに東京で出逢った
Earth dayやマルシェなどが大好きでそれを仙台でも
Smileartday〜地球みーーんなが笑顔〜として開催したいという
想いが膨らみ、その仲間になってくれる人も集めたいと思っていた。

 

マクロビの料理教室で出逢った人や
気になるお店に出掛けて
繋がりをもち、想いを伝えた。

 

みんな、驚くほどに共感してくれて
自分のスナオな想いを伝えることが怖かったわたしにとって
これは貴重な体験となった。

 

ー想いをもって伝えれば、共感してくれる人が現れるんだ。

 



妹に誕生日にもらった本を書いた人に会ってみたい。と
思いながらタイミングがなかった数年後のある日。

 

その本を描いた
てんつくマンが仙台で講演することを知り
これは行かねば。と主催する方のブログを見ていると
ボランティアスタッフを募集していた。


なんだか、熱くて素敵そうな人だし
みんなでひとつのイベントを創り上げるのは楽しそうだし
きっと、無料で講演も聞けちゃうだろうから、やってみよう。

 

ただ、すでにイベント当日は仕事が入っていた。


有休をつかっていい仕組みになっていたが、1年目だし
急だしどうなんだろう。。ーとドキドキしながら伝えるも
あっさりokをもらい、案外じぶんが思っているより
ほんとうはもっと自由で、じぶんの想いを伝えていいのだと思わせてもらった。

 


じぶんの想いを少しずつすこしずつ伝え
小さな一歩を踏み出したトキだった。

 


てんつくマンの講演会では
書き下ろしをしてもらえる時間もあって
そのときに書いてもらった言葉が衝撃的だった。

 

〜麻美は人に届けている愛、優しさをじぶんに向けてあげている?
大切な人を愛するように、じぶんじしんへも愛を〜


じぶんに愛を?
他人に対して愛をごはんにのせて届けること
優しさをもって接することはいつも考えていたけれど
じぶんに対してそれをする。という発想がわたしの中にはなかった。

 


涙が溢れてとまらなかった。

奥底でわたしがそれを求めていることが分かったけれど
それをどうしたらいいのか分からなくて
また、いつものじぶんに戻っていった。



そのトキに出逢ったメンバーは
素敵な人が多くて、そこから仙台での繋がりが広がりはじめた。


みんな、Smilearthdayにも共感してくれて
特にひとりの歳上の女性とは密に一緒に活動をはじめた。

 

その中に、この人素敵だな〜。と思う男の子がいて
数ヶ月後、付き合うこととなった。


彼は国際支援をする団体をつくって
国際パーティーなどを開いて精力的に活動をしていて
以前からそのイベントが気になっていたがタイミングを逃していた
わたしは、彼と付き合いはじめた直後にあった大きなイベント
クリスマスパーティーへ出掛けることにした。

 

そこで、現在のパートナー とみひでと出逢うことになる。


たくさんの人がいる場で、なんとなく
この人素敵だな。繋がりそうだな。と直感的に感じる人がいるのだけど、
そのトキの会でとみひではそうゆう存在で
会が終わりそうな頃、こちらに向かって歩いてきた。


**やっぱり**と思いながら話してみると、気が合いそうで素敵。

付き合いはじめた彼がいたにも関わらず、
不覚にも正直、*いいな*と思ってしまったのである。

 

連絡先を交換し数日後、お茶のお誘いがやってきた。

 

(後々知るのだけど、
このクリスマスパーティーでたくさんの人と
連絡先を交換したにも関わらず、メモリーがいっぱいで
交換した人のうちわたしの連絡先しか入っていなかったらしい。)


この人、わたしに気があるのかな?という期待ももちつつ
実は全くそうではなかったのだが。笑
付き合っていた彼に男の人と二人きりで会うのは嫌だ。
と言われていたにも関わらず
、男女関係なくフラットな関係を築きたいと思っていたわたしは出掛けてしまった。

 

とみひでとの時間は
初めて会った時に感じた**いいな**という想いをますます高めてしまった。
同じ想いや世界一周をしたいという共通の夢もある。

 

だけど、付き合っている彼もいるし。とその気持ちに気づかないフリをした。


彼が嬉しそうに話していた尊敬している。という人が
とみひでだったと後になって気づいて
それなら尚更、黙ってもいられない。と2人で会ったことを話すと、
彼はショックを受けたようでそれから一気に関係は冷め、
それから一ヶ月も経たないうちにあっという間に別れることとなった。


そのキッカケとなった
とみひでともケジメとして縁を切ろうと決め
誘いがきても断っていたら段々と連絡も少なくなり、自然と途絶えた。

 

そうこうしているうちに
多くの人の人生が大きく変わった、
わたしじしんの生き方も大きく動いた2011年3月11日が近づいていた。

 

物語〜序章その2〜

 


中学生になって、学校は相変わらず嫌いだったけれど
陸上部に入って毎日練習に明け暮れた。

 

 

中学高校時代は走る為に学校に行っていたと言っても過言ではないくらい
部活をしに学校に我慢して行っているようなものだった。

走るのは短距離も長距離もどちらも得意だったけれど
短距離をすることにした。

 

 

 

入ってそうそう
ただひたすらに何も考えずに走っただけだったけれど
仙台市の大会で優勝し県の大会でも4番になり東北大会まで進んだ。

 

 


けれど、一年生の夏は幼稚園を卒業してから
幼稚園がやっている英語を学ぶ習い事をしていて
(なのに英語は今話せない。。)
その集大成にアメリカに研修旅行という名のキャンプとホームステイにいくという大きなイベントがあった。


そもそも、幼稚園を卒業してから
6年間通わせてもらったわけだけど
こちらも学校と同様決して楽しくていっていたのではない。

 

 


おそらく、高い月謝を払っていてくれた両親には申し訳ないが
辞めたい。の一言が言えないがためににずっと我慢しながら通っていた。

 

 

 

だから、妹が一年やそこらで辞めたときは
根性ないなあ。と笑っていたけれど内心はものすごくうらやましかった。

嫌なものを嫌だ。という勇気がわたしにはなかったのだ。

 

 

 


そうして、アメリカ旅行も案の定行きたくなんて
少しもなかったけれど、6年間通ったら行くのが普通だったし
本当は陸上の東北大会に出たかったけれど、
出発数週間前にやっぱ辞める。と空気を読めないフリもできなかったので
行きたくもない研修旅行に多額のお金を払ってもらい出掛けたのであった。

 


…結果はみなさん、お察しの通り。。
ふふ♡

 

 

 


逆に好きなものを好き。とスナオに言えなかったエピソードもある。

小学6年生のときから好きな男の子がいてずっと想い続けていた。

こんなんだったのに告白しようとしたことも何度かあって
だけどできるはずもなく、ましてまともに話せない…。

 

 


そんな風に約2年間想い続けたある日、
その子の友達を通してわたしの元になんとラブレターがやってきたのである。

 

 

 

ぎゃーーーーー⁈!⁈⁈

わたしの恋をずっと応援してくれていた友達と大興奮。
実は、少し前にもう諦めようとその気持ちに蓋をしようとしていた。

 

 

 

 

どうするの?!

 

 

 

友達に聞かれて迷うわたし。
実はわたしが好きだった彼はけっこうに人気があって
学年でいちばん可愛いとわたしが思っていた女の子が彼を好きだという噂も聞いていた。

 

 

その子に目の敵にされたら。とか付き合っても何話したらいいんだろう。とか
一緒に帰ったりして誰かに見られたらどうしたらいいんだろう。なんて延々考えて
じぶんの想いなんか丸無視で周りの目が気にすぎて、じぶんに自信がなさすぎて怖くて断った。

 

 


なんて情けない。。
でも、当時のわたしにはそんな風にしか生きられなかった。

 

 

そんな中学生時代は陸上に出逢って本当に救われた。
目標を立てて練習に励めば、その努力は報われたし
3年生のときには100m、200mで全国大会出場した。


陸上に注いでいたあのたくさんのエネルギーがどこにも
発散できずにやり場がなかったと思ったらゾッとする。

 

 

走るときの風を切る感触が好きで
調子のいいときの試合でトラックを掛けた感覚は今でも忘れられない。

 

個人競技も好きだったけれど
実は、リレーや個人競技の順位に点数をつけて学校毎に競う"総合"も好きだった。

 

 


3年生の市の大会で男女での総合優勝を目指していたのだが、
人数の少ない私たちの学校は、みんながどれだけいい成績を出しても
マンモス校にどうやっても敵わず涙を飲んだ。

 

 

 


個人、リレーともに優勝していて
両親や担任の先生におめでとうと言われたが
全然、嬉しくなかった。

 

 

 

悔しくてくやしくて泣いた。
みんなで一緒に優勝したい。

 

 

 

そんな想いが叶って、県大会は優勝する
わたしは全国大会出場を決めるもみんなで行きたかった
リレーはいけなくって悲しすぎた。

 

人との繋がりが苦手だったわたしだけれど
陸上部の仲間とは共に、個人競技だったのでそれぞれに、目標に向かって
意外とじぶんだけより**みんな**で何かを目指す達成することへの憧れが強かった。

 

 

 

 

そうしてるうちに
高校はスポーツ推薦で陸上をするために学校に行き
スポーツ科だったので勉強はそこそこにお昼が終わると練習の日々だった。

 

 


スポーツ科は男子がほとんどで、
好きな人がいたこともあったわたしだけど
男子という生き物全般が実は怖かった。

 

 

 

でも、周りは男だらけ。こわい。。
そんなじぶんを変えたくって、まずは挨拶からしてみることにした。
下駄箱で会ったクラスメイトに''おはよう'を言う。笑
そんな簡単なこともできなかった。

 

 


もうそれだけで
ドキドキして仕方がなくて
高校生になると先輩は一気に大人な感じだし
最初の頃は気がきじゃあなかった。

 

 

 

陸上部の笑顔が素敵で優しい先輩に
「吉川(わたしの旧姓:きっかわ)は笑うとミッキーマウスみたいだね」
と言われ(口元が)喜んでいいのかなんなのかよく分からなかったけれど
わたしは嬉しくって、そうして少しずつわたしからしたら
男子とも先輩とも話せるようになっていった。(あくまでも、わたしからしたら。がポイント笑)

 

 

 

とにかく毎日走る日々で
走ること本当にすきなのかな?と思ってしまうときも
多々あったけれど中学生のときに達成できなかった
全国大会で入賞するという目標に向けて頑張っていた。

 

 


高校2年生の冬には
初めての彼氏ができて
ひとつ歳下だった彼に毎日大きいおむすびを結んでいた。

 

 


これを書きながら
今でもそのおむすびを結んでいたときの感覚を思い出す。

このときから色んな場面でおむすびを結んだけれど
あのとき、あの人に結んでいたおむすびの大きさやその感覚って
ひとつひとつ違くって案外覚えているものなのだなあ。とすこし驚いている。

 


 

 

 

わたしが食に興味をもったのは
小さな頃から食べるのが大好きで
休みの日にお菓子作りをするのが好きだったけれど
そこから更に食に取り組むようになったのは中学生のとき。

 

 

 


陸上部の顧問の先生に
走るだけではなく、食べるものも大切なんだ。と教えてもらい、
最初はほんとうに簡単に1日に何杯ごはんを食べればいい。肉魚料理を食べればいい。というチェックからはじまった。

朝練があり、朝早いわたしだったが
母が朝起きるのが少し遅かったため
じぶんの朝食をつくりはじめた。

 

 

 

段々と、栄養学の勉強をしていくうちに
ハマると極端になるわたしは野菜の重さなども計って食べるようになった。

 

 


1日これくらいの量を食べるために、朝の野菜は、昼の野菜は◯◯g…
高校生になると、女子は体重が増えやすいから気をつけるようにと言われ
甘いものは我慢して食事も野菜中心にしていた。

 

 


そうしているうちに
貧血になったり怪我をしてしまったりして
強くなるための食事ってどんなだろう。
というのが食に興味を持ち始めたわたしの最初のテーマだった。

 

 

 

そんなことも乗り越えて
無事に個人ではインターハイに出場、予選敗退するも
*みんなで*を叶えたかったわたしには嬉しい
リレーにて入賞を果たした。

 

 

 

3年生でももう少し競技生活は続くけれど
進路を考えなければいけない。

 

 

 

陸上を続けるなら一流のところでやりたい。
当時、女子の陸上部が盛んだった大学の名前を言うも
あそこは頭がないと入れない。と監督に鼻で笑われた。

 

 


両親は陸上をするなら東京に出してもいいと思っていたようで
東京の大学で推薦でいけるようなところへ行って
社会勉強しながら陸上をそこそこにやってもいいんじゃないか。と提案してくれた。

 

 

 

中途半端が嫌いなわたしはやるならトコトン!
中途半端にやるなら辞めた方がいい。と
このまま陸上を続けるのは簡単だけど、じぶんの中で
当時難しいと感じていた*辞める*ということを選択することにした。

 

 

 

そうして、
進路の話が学校でされ始めたときに配られた
職種の中にあった調理師がなんだかかっこよく感じたことと

甘いものを我慢していた当時、でもケーキやパンが好きで
ケーキ屋さんやパン屋さんやカフェの情報を切り取っては貼ったノートをつくっていて憧れもあって


カフェなんてそーんなに行ったことがなかったけれど、
いつかスマイルマークのまんまるな看板をつけたカフェをつくろう。と
専門学校にお菓子づくりを学びにいくことにした。

 

 

 

ほんとうは、
当時大好きだった高橋歩さんの影響で世界一周にいきたかったけれど
そんなことを口にする勇気もなくいつか、というか若いうちに20代前半には
お金を貯めて旅経とう。と心にしまい、次にやってみたいことを選んでみることにした。

 

 

 

 

 

 

この頃、何か迷うと本屋さんへ出掛けていたわたし。
当時、テレビでオーラの泉に出演していた江原さんの本を見つけた。
最初のページに書いてある言葉にハッとした。

 

 

 

 

**あなたがこの本を手に取ったのは偶然ではありません。**

 

 

 

 

…なぜかえらく納得した。
うんうん、そうだよね。この懐かしいような安心感。

 

 

 

江原さんの本に書いてある言葉はすべてじぶんのなかに
スーーっと入ってきて
中でもわたしが大きく心惹かれたのはひとりひとり**天職*があるということ。

 

 

じぶんの魂を精一杯活かして人の役に立って生きていきたい。
そう、想ってじぶんんを知ることに貪欲になり
スピリチュアルな本や高校を卒業してからはセミナーはスピリチュアルな勉強会に参加し、じぶんの天命、天職を見つけたいといつも願っていた。

 


 

 


ちなみに、
毎日おむすびを結び続けてあげた彼とは
もうすぐ付き合って1年。というときに別れた。


同じ陸上部だったのだが、
陸上に対する不安や不満が多くて、んもう、、弱々しい!と思ってしまったのだ。
そんな話ばかりでわたしという存在はいったい何なんだろうと。

 

 


好きでやってるんだから文句言うな。
とまではさすがに当時言えなかったけれど
不安や不満があっても口にできなかったわたし。

じぶんの弱さを誰にもさらけ出すことができずにいた
じぶんができずにいたことを堂々としていた彼が許せなかったのだ。

 

 

 

ほんとうは、彼が許せなかったのではなく、

弱音を吐くこと、弱いじぶんを

じぶんじしんが認めてあげれなかっただけなのだけれど。

 

 

 

 

 

彼と別れた直後、すぐにクラスメイトの男の子と付き合いはじめた。
東京の大学に進学する予定だった彼とはすぐに遠距離恋愛になり
わたしとしては彼が大学卒業したら結婚したい。と思っていたのだが
専門学校に入学して1ヶ月も経たないうちに電話で別れを告げられ
あっさり終わった。

 


と言ってもわたしの方はまったくあっさりではなくって
途中好きな人もできたりしたが、彼に会うと一気に気持ちを引き戻され
約5年間、引きずった。

 

 


そんな風に、正直勉強どころなんかじゃあない
大失恋と共に新しい生活がスタートした、2005年春。

物語〜序章その1


1986年7月22日ぎりぎりかに座、
吉川家の長女として麻美という名前をもってこの世に生をうける。


生まれてはじめてのキオク…
物語のはじまりは、幼稚園の年少のトキ。
三姉妹である吉川家の一番下の妹が生まれ
母がまだ病院に入院していたとき。

寂しくてさみしくて仕方がなかったのだが、
洗面所で歯磨きをしながら"お姉ちゃんなんだからガマンしなくちゃ。"と
涙をグッと堪えているシーンである。


これが、わたしの幼少期…というより
わたしの人生の多くのわたしの在り方の象徴であるくらい
誰に何を言われた訳でもなくこの想いを胸に、しっかりしたじぶんを生きようとしていた。

(母も同じく長女で幼い頃、様々な想いがあったらしく"お姉ちゃんなんだから!"と言われたことは一度もなかった。)



公務員で真面目な父と、明るく行動的な母。
父はあまり多くは語る人ではなかったけれど、
休みの度に父との遊びや出掛ける時間。
2人で時たま出掛けるときはちょっぴり緊張しながらも大好きなじかんであった。

母とのゲラゲラと笑い合うじかんは今でも大好きなのだが
幼い頃は特に母の機嫌をいつも伺っていたようにおもう。

そんな両親と2人の今でも可愛い、自慢の妹と5人暮らし。
どこにでもある、よき家族の中で育った。




幼い頃は近所の友達と外を駆け巡った。
年齢いろいろ、多いときは10人以上。
キックベース、リレー、秘密基地、冬はソリに雪遊び。

年齢いろいろなみんなが楽しく遊べる遊びを考えてよく、遊んだ。
住宅街で育ったが両親がよく自然の中に連れて行ってくれたり
すぐ近くの公園や小さな山で秘密基地をつくったりして自然も好きだった。


途中にファミコンがやってきて
魅力を感じたが、母は外で遊べ遊べうるさかった。
友達のウチでこっそりやらせてもらったこともあったが
我が家にファミコンがやってきたのはだいぶ後で外で遊ぶことが多かった。



冒頭に書いたはじめてのキオクの後、
どうやらしばらく幼稚園を休んだらしく(そのときのキオクはない)
久しぶりに幼稚園に行ったときに、担任のゆみこ先生がハグをして迎えてくれて
とてもビックリ&嬉しかった思い出がある。

わたしの中にあるキオクの中で
子どもの頃に大人にハグをしてもらったのは
このときだけで、それに気づいたとき両親にじぶんは愛されていないかもしれない。という感覚はここからきているのかもしれない。と思った。


そう、両親には不自由なく育ててもらい
愛がそこにある。ということは頭では分かるのだけれど
わたしより妹たちのほうが可愛いんだ。とか
女の子だけ、長女なわたしはわたしが男に生まれたらよかったんだ。と
どこかじぶんの存在を認められずに幼い頃から生きてきた。

そして、近所の友達と遊ぶのは元気いっぱい、
いつものじぶんでいられるのだが
人見知りで集団行動が苦手だったのか幼稚園はあまり好きになれなかった。

それでも、数人できた友達は嬉しくてうれしくて
違うクラスでも遊びに出掛けたり
年長では担任のヒロコ先生が面白くて大好きになり
あまり休みもなく登園していたようにおもう。

ヒロコ先生の
「麻美ちゃんの笑顔はひまわりみたい」というコトバが嬉しくて
いつも笑顔でいようと思うも小学校に入るとそうもいれなかった。



一年生になったら〜♪と
楽しみにしていた小学校だったが
小中学校の9年間は学校というものが嫌でイヤで毎日憂鬱で仕方がなかった。



と言ってもそんなこと、一言も放ったことはなく
まして休みたくてもカラダが人一倍健康なので
学校を休みたくて前の晩に水シャワーをどんだけ浴びても
全く効果はなく、朝礼で貧血で倒れたいなーなどと思っても
今ではちゃぶ台を担いで富士山に登る強靭なカラダをもったわたしにそんなことが叶うはずがなかった。


休んだことといえば、確か小学1年生のときに
朝起きられず、起こしにきた母に
「どうしたの?お腹痛いの?」と聞かれ
うん。と頷いてみた仮病の一回のみだったように思う。



別にいじめられた。とか友達がいなかったという訳ではなくて
運動やカラダを動かす遊びは元気いっぱいだけど
内弁慶で学校ではうまくじぶんが出せなかった。


それでも仲のよい友達は進級する度に数人はいて
その子たちの前ではよくしゃべり、よく遊んだ。



それなのに
小学校低学年で交換日記をしていた友達に
いきなりぐちゃぐちゃになったノートに大嫌いと訳もわからず書かれたり
仲のよかった友達が実は影で悪口を言っていたよ。ということが何度かあったり
泊まりで出掛けたイベントで突然仲のよかった子に無視をされたり
友達の少ないわたしはポツンとひとりになるしかなかった。


だからと言ってそれを誰かに言えるはずもなく
ましてや、幼稚園の頃から
わたしたちを子どもを子ども扱いする大人という存在が信じられなかったし、
母親が麻美は友達いるのかな…と言ってたらしいよ。
とわたしの数少ない友達のお母さんに漏らしていたことを
その友達が話してきて、お母さんには心配させまい。と強くつよく誓い
学校も習い事も苦痛でしかなかったけれど、何事もないように通った。



泣くもんか、しっかりしなくちゃ。とひとりでいる強さを身につけ
人はよくしてても裏切るものなんだ。ということを学んだ。





学校で唯一好きで安心できたのは図書室。
短い休み時間でも休み時間の度に通ったときもあった。

特に好きだったのは伝記。
漫画で描かれたものだったが
夢中で読んで、それぞれに素晴らしい生き方をした偉人たちのように
じぶんもなりたいと思っていたのでは?と今になっておもう。

でも、暗い狭いじぶんの世界とはかけ離れすぎて
当時は憧れすら抱けていなかったのだとおもう。





大好きだった給食のじかんも
学年を重ねる毎ににじぶんをより内へうちへと
閉じ込めるようになるに連れてだんだんと苦痛になってきた。



学校で好きな芸能人をすら言うことすら恐れ多くて
友達に絶対に言わないでね!!と念を何度も押し
*じぶん*というものを隠し続けた。



仲のよい友達に見せる放課後の顔と
学校でじっと黙りじぶんを押し殺すギャップが大きくて
友達に、学校のみんなが麻美ちゃんのこんなはしゃいでいる姿を見たらビックリするね。と言われ、ショックを受けた。


このじぶんを見せちゃいけない。
みんなの目に映る、大人しいじぶん。を学校では無意識に演じはじめた。
その演じたじぶんをじぶんそのもののように言われると
(麻美ちゃんって大人しいよね。暗いよね。)
ものすごくショックで、わたしは周りの人に対してすぐに、
あなたはこうゆう人だよね。と決めつけるのを辞めよう。
人には色んな側面があるんだ。と静かに心に決めた。



そんな中、個人の卒業写真を先生がひとりひとり撮ってくれたのだが
みんなが見ている中、怖くてこわくて顔がひきつって全く笑えない。という出来事もあった。


周りの言うことや出来事に
いちいち反応してたらきっとじぶんがもたない。とココロが無意識にに
生き抜くために働いたのか、気がついたら感情を押し殺し感じないようになっていた。
そうしたら、傷つかなくて済むから。

そうして表情もきっと固くなっていって中学生にあがる頃には
大嫌いだった男の子に*無表情*と言われるまでになっていた。




それでも
幼稚園、それを卒業してから通った習い事が
キリスト教だったこともあって
毎晩神様に家族が元気でいられることを布団のなかで願い
どこかに希望を感じ祈っていたのかもしれない。








物語の序章〜その3〜


じぶんの物語の
新たな章のはじまりと結びの予感を感じて
ニュージーランドに行く前に記したかった、わたしじしんののこれまでの物語。



書けるとこから書けるときに。とやっていたら
ずっとなかなか進まなかったのに昨日から何かスイッチがはいったらしい。笑
飛行機のなかでもひたすら書いた。



お陰様で経由地の
クアラルンプールに到着♡

空港は意外と穏やかです。




中途半端なところからのスタートで終わりはまだまだなのだけど。





先日、さわさんがわたしの両親に一瞬会い
挨拶してくれる機会があったのだけど
「ご両親、普通だしすごくいい人そうだねー。
突然変異で麻美ちゃん生まれちゃったのね。笑」

とみんなで笑っていたけれど
じぶんの人生を振り返っていたら
わたしもとっても普通の感覚をもっていた。

いい子にしなくちゃ。
親の目、世間の目を気にする。
じぶんのスナオな想いよりも親の意見を大切にしたり
どこかじぶんの気持ちに嘘をついてその想いがほんとうだとさえ言い聞かせて
お金のために働いたりもしていた。


普通と言ったけど普通以下かもしれない。
ほんとうに、ささいな日常の、普通の人が言えるであろう
こうしたい。これがいい。が言えなかった。



そんなわたしが今、
じぶんの想いにスナオになることがすごく大切で、それを生きること
ちゃぶ台を囲んでスナオな想いを伝え合える場をつくる挑戦をしているのだから面白い。




過去のじぶんを知ってもらいたい。というよりは


ひとつの物語を結び
新しい物語がはじまるこのときを
これまでの物語を語ることで
この物語の行方を共に分かち合える人がいたら嬉しいな。ということと


わたしの物語が
ほんとうはあなたの中にも潜む
壮大で自由な物語の扉がノックできる存在になれたら嬉しい。






じぶんを知りたくてじぶんを生きたい。という願いは
わたしたちのいのちそのものの願い。




この世界に
じぶんの物語を描き、じぶんを知り、それを生きるためにやってきた
わたしたちはほんとうに愉快な存在だとおもう。



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はじまるよ〜




2010年に栄養士の勉強をするべく
一人暮らしをしながら通った埼玉の短大を卒業して地元の仙台に戻ってきた。



高校卒業後
専門学校で製菓を学び、
高校時代陸上をしていて甘いものをガマンしていたことと
本格的なフランス菓子の魅力に取り憑かれ、甘いものをよく、食べた。
そして、よく肥えた。笑


ほぼ、毎月東京に行き有名なフランス菓子にお店を食べ歩きして巡った。
せっかく就職して学ぶなら本格的なところで。
と学校に東京から講師にきてくださっていた先生の
フランス菓子店でこの学校の卒業予定の人に就職枠をつくる
という話を聞き、いきたい!!と願うも…


両親の近くにいてほしい。という願いに逆らえずに希望を申し出る前に
あっけなく破れた。


それが、製菓を学び終わる頃。
さて、じゃあどうしようか。と
専門学校のもうひとつの調理科に進む人なんかもいて
それはイイかも。と両親に言ってみると
製菓も調理もできたら就職に有利だとかなんとか言われて
引き続き学ぶ許しをもらった。


調理科は夜間部もあって
昼間は学校から紹介してもらった新しくオープンする
小さなフランス菓子店や高校生のときからやっていたケーキ屋さんや
イタリアンのお店、夜学校がないときは製菓時代からやっていたコールセンターでのバイト。とよく働き夜は学校で学んだ。


さらに、早朝に働けないか。と考えていたくらいだったけれど
そんな生活を数ヶ月過ごして、じぶんに異変が訪れた。


夜、学校や学校が終わった後は
じぶんへの可能性やあんなこと、こんなことしたい。と
語ったり妄想したり元氣なのだけれど
翌朝起きるとあの想いはどこへやら。


すべてのやる気が何者かによって奪いさられてしまったようで
起きれない。でも起きなきゃ。でもツライ。。。
そんなじぶんを抱えながらも頑張る日々。

ふと本屋でわたしは何がおかしいんだろう?
と本を手に取ってみた。
精神病の本…うつ病の診断表をじぶんの症状と照らし合わせてみると
ほぼ、全部当てはまる。


うつ病、、なのかなあ。
なんかちょっと救われたような、認めたくないような。。
どれくらい経ってからかは忘れたけれど
誰にも言えなくて相談できなくてどうにもできなくて
精神科へ行ってみることにした。


入るところを誰かに見られたらどうしよう。
病院に行ったことを両親にバレないだろうか。。
やっぱり辞めようか。そんなことをグルグル考えて、、
勇気をだしてドアを開けた。


問診票やいくつかの質問を経て
先生に言われたひとこと。
鬱病ですね。頑張りすぎたのでしょう。ーがんばりましたね。」



鬱病と認めたくなかったはずなのに
鬱病であったじぶんにホッとし、
先生のコトバに救われた気持ちになった。


今思うと
あの頃、両親に迷惑を掛けないようにと
早く一人前の大人になりたくて
頑張らなくちゃがんばらないと。早く自立しないと。と
必死になって働いていたじぶんへ少しお休みしようよーーとカラダからのサインだったのだとおもう。


薬をもらい、できるだけゆっくり休んでください。
と言われるも、そうもいかないよなあ。

と頑張って変わらない生活を続けようとしていたけれど
薬の副作用で具合いが悪かったり、人と約束をしても直前になると
気持ち的にもう出掛けることも誰かに会うこともカラダが拒否して
よくドタキャンすることも多かった。
でも、断りの連絡をいれた途端に申し訳なさ以上にホッと安心していたようにおもう。




お金が欲しくて働いていたものの
あまり多く収入があっても親の控除を外れてしまうとかなんとかあるらしい。
そしてこの勢いでいくとその金額も越えてしまいそうだ。

ということで、
心も限界を越えていたこともあって
複数していたバイトを思い切って年の後半の数ヶ月休ませてもらうことにした。


そのときのことをよくは覚えていないけれど
夜は学校に勉強へ出掛けて、昼間はひたすらにゆっくりしていたのだとおもう。


家で犬を飼っていたので
よく夕焼けを追いかけて一緒に散歩に出掛けた。
夕焼けは一瞬でその表情をくるくる変える。
美しいその一瞬を感じたくて夕方になると愛犬リューと共に家を飛び出した。
田んぼの広がる場所までの道を駆け抜けた。




そんな日々の、
ある日の夕焼けのじかんに感じた感覚が忘れられない。




いつもの夕焼け。
黄金に輝く稲穂、美しい空のグラデーション、わたしたち2人の影、澄んだ空気。




毎日何か満たされず、何かを掴みたくっていたあの頃。


その夕焼けの瞬間、わたしの中に訪れたのは
すべてここに在る。という感覚。それまでの人生でこんなにも満たされたことはない。
とおもえるくらい内側から満ちみち満たされる感覚を感じていた。




こんな感覚で生きていきていきたい…





これまで、
いつもどこにいてもわたしの居場所はここじゃない。と感じてきて
早く中学生に、早く高校生に、、早く大人になりたい。
と願ってきたけれど大人になった当時も
何か満たされない思いと共にじぶんじしんの存在を認められず
じぶんの居場所も感じられずにいたわたしの中に突然舞い込んできた初めての感覚。



ようやく出逢えた
その満ち足りた気持ちとこれまでに感じたことのない安心感は
わたしの中に染み込んでいき、でもあっという間にいなくなってしまった。





うつ病のことを
しばらく、親にも誰にも言えずにいたのだけれど
当時仲がよくて尊敬していたお姉さん的存在の友人に打ち明けてみることにした。


それが、とてつもなく怖くてこわくて
嫌われやしないか。ドキドキしながら伝えた記憶がある。


その友人は少し年上だったこともあって
たくさんの友人や経験があって以前に友達にもうつだった人がいたようだった。


苦しみを感じ、受け入れてくれた姿にホッとしたのも束の間
次の言葉にあっという間に突き放された気持ちになった。

「何かしたいと思っても、周りは何の力にもなれなくて結局本人でしかないんだよね。」


今となってはその言葉の意味はわかるけれど
勇気を出して、そしてきっと当時、助けてほしくて打ち明けた
わたしの想いはそのまま床にガシャン。と落ちて割れてしまった。



もう、誰にも頼るまい。誰にもこのことは話すまい…


そう誓って、
当時、一緒に住んでいた両親もわたしの異変には
気づかずにいた寂しさと恨みに近いような気持ちと
でも、気づかれたくない心配させたくない想いからの安心感の狭間に揺れながら
ますます誰もわたしのことは助けてくれない。頼ってはいけない。
強くならなくちゃ。という想いを強めていった。




その頃、
幼い頃からあった世界の平和を願う気持ちや
地球の環境問題を改善したい想いが強くなってきていて
食に関しても**人間だけじゃあなく、地球も地球に住む生き物たちもHappyであれるごはん**はないのだろうか?と考えていた。


あるとき出掛けた本屋さんで見つけたマクロビオティックに衝撃を受けて
わたしの探していたものはこれだ!!と
ちょうど、肉食に疑問を感じていた時期でもあったので
完全に肉食を辞め、マクロビオティックの実践をはじめた。



うつ病の薬、病院に行くこともわたしの中で
だんだんと違和感がでてきて2ヶ月ほどで辞めてじぶんじしんのチカラで治す。と決めた。



うつ病だと分かった当初、薬以外に何かいい方法がないだろうか?と調べてみつけた***ヒーリング**という言葉。元々、スピリチュアルに抵抗のなかったわたしはすぐに受けてみることに。



何か、温かい感じがするけれどよく分からないなあ。と受けていたが
途中から涙がとまらなくなった。


嗚咽を漏らし、長い間泣き続けた。
他人の前でこんなにも泣いたのは初めてかもしれない。
施術にじかんが過ぎたにも関わらず、ヒーリングしてくれた方は優しく背中を触っていてくれた。


わたしもこんな、優しさを誰かにも届けたい…




聞いてみると
ヒーリングやスピリチュアルな学びを教えてくれる先生が
東京からやってきて施術してくれた方が勉強会を開いているとのこと。


そんなことへ興味がありながらも
その実践の場や仲間を本以外に入り口を見つけられずにいたので有難い。
早速出掛けてみることにした。


最初にその東京からやってくる先生のセッションを受けてみた。
前世が見えたり、わたしの守護霊からのメッセージを教えてくれるらしい。


わたしはじぶんの使命というものを知りたくて知りたくて
その使命を生きて人の役に立って生きていきたい。と願っていたので
その答えを知れると期待していたのだけれど残念ながら
断片的な情報ばかりでじぶんの使命は全く分からなかった。


勉強会では見えない世界の基本的な学びや
感じ、伝え合うワークが特に多かった。


例えば2人一組になって
相手から感じる色をカラダの部分によって描き、伝えることや
数あるリボンの中から好きなリボンを数本選び、よく触って相手に渡す。
受け取った人はそのリボンから感じるその人について伝えていく。
他に相手の持ち物をひとつ借りて、そこから感じる情報を伝えてみる。

じぶんというものについて知りたくて仕方がなかったわたしは
相手が言葉を伝えてくれることは嬉しくて仕方がなかった。
中にはすごく敏感で多くの情報を感じられる人もいて楽しかったのだが、
じぶんが伝える番になるともう不安だし言葉を発するのも怖い。


まず、このほんのり感じる*何か*は果たして正しいのだろうか?
的外れなことを言ってしまわないだろうか?
そして、それを言葉にするのがそもそも難しい。


じぶんの中に訪れる
時には映像で、色で感覚で感じる*何か*が信じられなくて
いつもいつも、正解を探していた。



それは、いつだって
じぶんの声なのだけど
いつも相手の反応を伺って伝えることを恐れたり
もしくはじぶんの中で感じていることや伝えなくちゃあいけないことを
相手が察してくれることや勝手に伝わっていることを何故か信じていた。


そういえば、陸上をしていた中高生時代…
秋の県の新人戦で◯◯秒で優勝する。とじぶんの中で決めて熱くなっていたにも
関わらず、尊敬していた顧問の先生にもっと◯◯する!とか◯◯秒で走ると目標を決めて貪欲になったら?と言われたときにはビックリした。


じぶんの中では目標を決めて練習にも熱意をもって取り組んでいたのに
何事もスマートにこなしているように見えるらしく、全く伝わっていなかったのだ。

高校生のときには、足を痛めてしまって言うのが怖かったということもあるが
勝手に、監督が感じとってくれているだろう。と思い込んでそのままでいたら
「ちゃんと口にしないと伝わらない」と怒られたこともあったっけ。



そんな風に、言葉にすること・伝えることの苦手意識と共に
勝手に想いは伝わるもの。という感覚とそれが通用しないことを知って
言葉にする難しさを感じるときは、頭にプラグを繋いでこの見ている映像を相手にも
見てもらえたら楽なのにー。といつも思っていた。

そして、じぶんの感覚やスナオな想いは伝えていけないもの。という
観念があってじぶんの感じたことをそのまま伝える行為は
毎度わたしにとってはいのち懸けに近い行為だった。



そんなわたしが今、
じぶんの想いにスナオになることがすごく大切で、それを生きること
ちゃぶ台を囲んでスナオな想いを伝え合える場をつくる挑戦をしているのだから面白い。




話が膨らんだが、
そんな風に、相変わらずじぶんのほんとうのほんとうのスナオな想いを
伝えることができないわたしが、また調理科の卒業を控えてまた進路を考えることとなる。



調理科では栄養学の勉強もあって
中高校時代に走るだけじゃなくて食べるものも大切。と教えてもらい
栄養学に興味をもって独学で学んで実践してそれなりの結果をだしていたわたしは
栄養学の楽しさを思い出し、スポーツ選手の栄養面のサポートをすることもいいな。と思いはじめた。


だけど、
ほんとうのほんとうは世界一周の旅にでたい。
でも、絶対反対されるだろう。東京での就職も無理。
そして、栄養士になってスポーツ選手のサポートというのも
わたしの気持ちであることに嘘はないのだけどマクロビオティックを実践するうちに
西洋の栄養学で栄養のサポートをするのが一般的だったのでそれに疑問を感じはじめていた。

調理の道で進むならマクロビオティックや自然食などより自然でカラダによい
ごはんを出すお店で学びたい。でもそんなお店仙台では多くないし小さなお店が多いから正社員は難しいかも。そんなこと許されない…



そんなことをぐるぐる考えてもじぶんの気持ちにスナオになって
チャレンジすることはできなかった。



以前に、両親に栄養士の勉強をしたいと言ったこともあって
わたしの気持ちはマクロビオティックを学びたい。という気持ちにすでに移り変わっていたのだが、そんなことは言えずじぶんの奥底にしまいこんで
じぶんでもそんなこと知りません。というくらいに知らんぷりをした。


調理師やパティシエは長時間労働なのにお給料が安かったり休みも少なかったりするのに対して、栄養士は勤務時間も一般的な会社員の人と同様なことが多かったり、お給料も調理師よりはよくて安定する。まして栄養士になるときに調理師の免許をもっていたら就職に有利だ。とかなんとか言われて
わたしが一度、栄養士になりたい。と言ったのが前提ではあるのだけど両親は栄養士になることを勧めた。


高校卒業しての3度目の進学も認めてくれている。

ほんとうの気持ちはどこへやら、それがじぶんの本音だと思い込んで
学びに行くなら、そして2年だけだったら。ーと許しをもらい
埼玉の短大に栄養士になる勉強をするために念願の一人暮らしをしながらの生活をすることに決めた。


調理科、夜間部は昼の部の学生が1年かけて勉強するのを
1年半かけて勉強するので卒業が10月だった。
短大入学まで約半年ある。

その半年の間にじぶんでもバイトをしてお金を貯める。と約束していたのだが
こんなにせっかくじかんがあるのなら、行ってみたかった
フランス菓子を学びにフランスに短期留学してみたい。。!
という想いがむくむくと湧いてきた。


思い切ってその想いを母親に伝えるも

なんでじぶんばっかり自由にするの。
短大の学費も大変なんだからね。お父さんも大変なのに。


と言われ、


ああーやっぱりじぶんは自由に生きてはいけないんだ。
早く自立してじぶんでちゃんと稼いで誰にも迷惑かけないようになってから
自由に生きよう。まだ、海外にいったことのない母親に海外旅行もプレゼントしたり親孝行してからだな。じぶんが最初に自由になったり楽しんだりしてはいけないんだ。


その想いをさらにしっかりと強化した。




はじめて、仙台を離れてくらし、一人暮らしもはじめて。


それでも寂しさは全くなくて一人暮らしを満喫した。
毎日じぶんで食材を自由に選びごはんを作れるのが嬉しくって
ごはんを食べたばかりでも次の食事は何を作ろうか?と考えてばかりいた。


学校は、2年半専門学校へ行った後だったので3歳歳下の子たちと同級生。

それでも、わたしみたいに年齢が違う人や更に50,60代の方たちもいて
元々たくさんの人や集団での生活が苦手なわたしは歳下の子たちの集団には
上手く馴染めなかったけれど、それでも慕ってくれる子や逆に歳上の先輩方や好きな先生にお世話になってじぶんの心地よい場所を見つけてそれなりに楽しんだけれど
どこか満たされないそして奥底に孤独を感じていた。


いずれは自給自足をしながら生活をしたい。という想いもあって
学校の先生に交渉し、同級生だけれどお父さんよりも歳上の実は社長の方に
教えてもらいながら学校の繋がりで借りれた土地で野菜作りもはじめた。
そのときにつけたサークルの名前は何故か、*トマトクラブ*だった。



住んでいたアパートは通っていた短大の女子学生限定のアパートで
そこで一緒に住んだ同級生と過ごすじかんも好きだった。


お互い部屋を行き来して
悩みや想いを話したり聞いてもらったり。



お好み焼きが好きだったわたしは
よくみんなでお好み焼きパーティーをしたり
おむすびを結んでみんなを迎えた。


誰か、悩みや重い気持ちをもってやってきても
おむすびはホッとそのココロを解いてくれる存在のように感じ
これがわたしの役割のようにも段々と感じるようにもなっていた。


新米が届くと学校へ米をもっていって
研究室の炊飯器で炊いて、塩むすびをよくみんなに振舞ったりもした。




そんなある日
家の近くにある毎日のように通っていた図書館で一冊の本に出逢った。


**おむすび**といえば、一番に名前が挙がる
佐藤初女さんの本だった。


パラっとページをめくり
なんだかこれは大変なものを見つけてしまったかも。と
借りもせずに近くにあった椅子に座って一気に読み上げた。


放心しながらわたしの中から湧いてきたのはとてつもない悔しさだった。ー



わたしのしたいことをもうすでにやっているし…
しかももうすでに何十年も前から。



わたしの中にうまれる誰かに対する悔しさは
じぶんの中にある想いをすでに実現していることへの尊敬と
それをじぶんがまだやり切れてないもどかしさ。
それと同時に、じぶんの中にその可能性の種が眠っているサインだとも。ー



とにかく、悔しくって悔しくて
それと同時にマザーテレサを尊敬していたわたしは
やっぱりわたしは人に尽くして生きようと道をみせてもらった気がした。



栄養士になりたいという想いの根本や
じぶんの特質は人に尽くしサポートすることだと思いはじめていたので
初女さんの姿はそのわたしの想いを後押しした。


さらに、仙台に住んでいたときに通っていた
スピリチュアルやヒーリングの勉強会は元々、東京が本部だったので
週末には東京へ学びに出掛け、ヒーリングで人を癒すこともじぶんの役割だと感じはじめていた。



人の為に、人に尽くし、人に愛を届け生きよう。
そう、生きると決めた頃だった。



短大に行って西洋の栄養学について学ぶも
ざっくり言ってしまえば摂るべき栄養素の数字を合わせればいい。という考えがしっくりこず、だってその食べ物の質は?ひとりひとり体質が違うから摂り方も違うのでは?と疑問に思うことが多く卒業論文では東洋と西洋の栄養学が統合していったらいい。というようなことや、東洋の栄養学の本をよく図書館で読んでいたりした。


けっきょく、入学前から惹かれ実践していたマクロビオティックの食事を作るようなお店で働きたい。と東京にはそんなお店はたくさんある。
イベントで素敵なお店の方に出逢ってウチで働く?と言われたこともあったけれど
それもやはりバイト。


やっぱり栄養士で働くなら安定して働けそうだなあ。
サポートするなら誰をサポートしたいだろう?

元々、栄養士になったキッカケのスポーツ栄養士だったが、かなりの狭き門。
なかなか最初からスポーツ栄養士になることは難しそう。


子どもが昔から好きだったわたしは
子ども達の食事に関われたら。と思うようになる。

通っていた学校は当時、始まったばかりだった
栄養教諭の免許もとれたので免許を取得し教員採用試験を受けることも
考えたが募集している県はほとんどない。宮城県も同様になくてあったとしてもかなりの狭き門。


しかも、わたしが伝えたいこととは違うことを伝えなくちゃあいけない。
安定しなくてもじぶんの好きなことをやるか、安定して気持ちは妥協するか。


何かを決めるときに
大きな影響はいつだって両親の声でそれをいつも越えられなかった。
東京で就職したかったけれど、変わらない両親の近くにいてほしいという願い。
それだったら仙台で好きな仕事でバイトでもいいよ。と父は言ってくれたけれど
何を今さら。わたしの気持ちはすっかり両親を喜ばせるには仙台で安定したところを。ーという頭になっていた。


まあ、縁あるところに決まるでしょ。と
就職活動もそこそこだったわたし。

なかなか決まらず冬を迎える頃、
子どもの食に関わる仕事。で調べていると児童養護施設という言葉を見つけた。


親からの虐待や親の金銭的な理由などで
親と一緒に暮らせない子どもたちが家のように生活している施設らしい。


元々、世界の貧困や孤児への想いを馳せていたわたしは
ここだ!子どもたちのココロをごはんで少しでも温め、癒したい。

と求人しているところを探した。


児童養護施設の求人は保育園などと比べるとすごく少なくって見つけたのは神奈川だった。

ダメ元で、そして決まったらもう両親も認めるしかないだろう。と受けることに決めた。そこは、施設の中に寮もあるのでほぼ子ども達と一緒に時間を共にする。

調理だけの仕事ではなく、
卒業と同時に取得予定だった栄養教諭の教員の免許がそこの受検資格となり
栄養士や調理師というより保育士さんや学校の先生とともに子どもと共に暮らし
親の代わりとなって教育することでもあった。

せっかくならそれくらい深く関わりたい。と願ってもない仕事だったが
母は、麻美は感情移入しやすいし心配。と言われたりするも結局は不採用となった。



なかなか決まらない就職先。
なんとかなるでしょ。とのんきなわたしだけれど周りは何やら心配そう。

あまり、気も向かず出掛けた埼玉のハローワークで見つけた
仙台の児童養護施設の求人。おお!と思うも募集しているのは調理員。



短大にまで行かせてもらって栄養士の勉強をしたのに調理員だと
また両親をがっかりさせるかなあ。と思うも
もう、仙台で安定するだけいいと思ってくれーー!ともう受かる気しかせず
確か年末に面接に行き年明け10日ほどで採用の連絡をもらった。

そこは市から委託されている施設なので
調理師としてはなかなかない、夏と冬のボーナスをもらいながら勤務できることとなった。よしよし。


よし、ここで最低3年働いて
親孝行しながらお金を貯めて世界一周に出掛けよう。
もう、文句は言わせない。


そう決意して仙台に戻り
実家に暮らしながら2010年春、働きはじめた。




そして、物語は結ばれていく




じぶんじしんの中に潜んでいる物語に気がついていくと
人生はこんなにも壮大で、目の前にあるひとつひとつの小さな出来事や
あのときの悩みや小さなちいさな選択さえもすべて完璧だったんだ。とおもえる。


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たくさんの*あのとき*…。

小さなじぶんの中から湧いてくる声にスナオになったことが
物語を紡ぐひとつひとつであって、あのときの直感やじぶんの中で感じたことは
わたしたちの中に潜む壮大な物語からの声であり、サインだったのかともおもう。




じぶんで選択しているようで、じぶんで生きているようで(生きているのだけれど)
実はじぶんなんていうちっぽけな存在を越えたなにか大きなおおきな存在が
*わたし*の終わりのない物語を、どこまでも自由に想像して創造しながら
物語の中のわたしたちに声を掛けているのではないかともおもう瞬間がある。



そして、その大きな存在は実はじぶんじしんだということも。


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だから、けっきょくは
*じぶん*で物語を描いていることに間違いはないのだけれど
今ここに肉体で存在しているじぶんだけじゃあなくて
この物語を見ているおおきな存在とも友達になって一緒に遊んだら
じぶんでは想像もつかないような壮大な物語が生まれていたことに後から気がついて驚くことがある。







今回20日から行く、ニュージーランドの旅。
(その物語を書いた記事↓)

物語を結ぶ


前回の記事に書いたように
ニュージーランドに行く理由が
2011年震災があって一度手放した夢のカケラを、じぶんのカケラを拾いにいくんだ。ということに気がついたのだけれど、夢のカケラを拾いにいくと同時にその夢がニュージーランドからはじまっていくことを今日知った。



あのとき、置いてきた夢。
それは世界中のみんなと笑顔で食卓を囲むこと。


もちろん、ここ数年でもたくさんの食卓のなかで
たくさんの笑顔を交わしてきた。


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(先日も大好きな仲間と、ウエディングちゃぶ♡)



だけれど、高校生のときにもった
世界一周そしてごはんをつくることをじぶんの真ん中に
置いてからは世界を周りながらみんなと食卓を囲むことを思い描いていたけれど
約12年ずっと叶えられずにきた。



今回、じぶんの夢のカケラを取り戻して
**まずは日本から。**よし、3/11からなのか。と結びの旅を始めようしていた。



…のだけど、、2/22その夢は思いがけないカタチではじまりそうなのである。






ニュージーランドに滞在中で今回のタラナキ山での
祭りを現地ですでにつくってくれている仲間のお蔭で
今回、先住民のマオリ族の方たちに村にお伺いできることになった。


イギリスに植民化されそうになったときにも
非暴力非服従でガンジーにも影響を与えた村のご子孫だそうで
今回の夢祭りにも共感してくださっていて
登山前にはセレモニーもしてくださるとおっしゃってくれているらしい。



今回のニュージーランドの旅、祭りでは
タラナキ山に山頂でみんなでおむすびを食べられたら満足。
あわよくば、出逢った外国の人とちゃぶ台を囲みたいなあ。と思っていたのだけど



同じスピリットをもつ同志としてのその出逢いに
マオリ族の方達との**結び**の祈りと象徴、そして感謝を込めて
おむすびを作らせて貰えることとなり共に食卓を囲めることとなった。




何年も叶えられずにいたきたことが
思いがけず、音もたてずに?あっさりとカンタンに
想像を遥かに越えたカタチではじまっていく。





物語は結び、結ばれていく*


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(変な顔。笑
父方のおじいちゃんおばあちゃんから譲り受けたちゃぶ台と
母方のおばあちゃんから譲り受けた着物で出掛けます♡)





















じぶんの物語を結ぶ

今月、かなり久しぶりに海外へ出掛ける。


豊かな自然と星空が美しいその場所へどうして行くのか
その理由をじぶんじしんへ問うことはじぶんの中に潜む、物語に気づいていくことだった。


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今回のこの旅
実は、2011年3月11日に起きた東日本大震災から繋がっている。



たくさんの人がじぶんじしんの在り方を考えたであろうこの出来事は
わたしにとってもじぶんを生きる人生のおおきなキッカケとなっている。


あのとき、いてもたってもいられなくて
なにができるだろう?と思ったときにでてきたこと。
それは、おむすびを届けること。
おむすびに想いを込めて、誰かが想っていることを伝えたかった。




親や周りの人に反対されながらも行くと決めたその一歩は
ほんとうにほんとうにやりたい、スナオな想いをほんとうの意味で
人生ではじめて行動できた瞬間でもあった。





そんな一歩を踏み出したときに出逢ったのが
現在、共に活動している富士夢祭りの発起人のドリームアーティストの大志さん。


夢ハンカチという白いハンカチに夢を世界中の人に描いてもらう
毎年旧暦の七夕に富士山に届ける富士夢祭り。


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(今年はじめに描いた夢ハンカチ)


白いハンカチを目の前にしたときに
じぶんってなんだろう?じぶんの夢って?という
じぶんじしんとの対話を大切にしてほしい。という想いに共感して
わたしも一緒に夢を集めることに。



その年の7/7
被災地の子どもたちの夢を集めて
**陽はまた登る**というMessageを込めたアートをつくることを決め必死になって3000枚の夢を集めた。


同年9/11はNYテロから10年目の日でもあり、宮城県石巻にあった自由の女神像の前に
ハンカチで**IMAGINE**というアートをつくった。



ひとりひとりの心が開き、スナオな想いが白いハンカチに描かれていく。
夢を集めながら、たくさんの笑顔に出逢った。
ひとりひとりの奥底に宿る、美しさが夢そのもの。


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(2012年の富士夢祭りのチラシ。周りにはたくさんの夢スマイル写真)



その美しさを表したハンカチをもって
写真に収める**ゆめスマイル写真**




そんなエネルギーがギュギュッと詰まった写真のデータが
翌年2012年7月21日に宇宙へと打ち上げられ、宇宙ステーション「きぼう」へと届けられた。


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毎日、1日に地球を7周半それが1年間。
ぐるぐるぐるぐる、みんなの夢と笑顔が周りわたしたちを包む。


1年後、役目を終え
大気圏へ突入させ、火の鳥のように燃え上がりそのカケラたちが落ちた先。


それが、今回行くニュージーランドだ。



今回、富士山の日である2月23日にニュージーランドの富士山によく似た山
「タラナキ山」に登り富士山で毎年やっている夢祭りに続く、世界での夢祭りをはじめていく。




直感的に前々から
わたしもこの夢祭りのためにニュージーランドに行きたいと感じていたのだけど
最近になってようやくその理由がじぶんの中で分かってきた。



震災があって多くの人が考えたであろう
これからの生き方とじぶんじしんの在り方。


わたし自身も
じぶんって何者なんだろう?じぶんの夢って、
この人生で限られたいのちのなかでやりたいことってなんだろう?と
たくさんじぶんじしんへ問うた。




そう思ったときにでてきたのが
**世界中のヒトと笑顔を交わすゴハンを共にする*ということと

元々、世界一周という夢があったわたし。
**世界中にI♡youを伝える**旅をすることだった。



だけど、すぐ近くで苦しんでいる人がいる状況のなか
そんなじぶんの夢なんか追いかけている場合じゃない。としか思えなくて
世界一周のために貯めていたお金をゼロにすることを決め沿岸部へ炊き出しへ行くことに。



そこで、出逢ったひとつのいのちとしての触れ合いや笑顔。
そのときは目の前にあることに必死で気がつかなかったけれど
**わたしのしたかったことはこれだ**と後々になって
実はもうそのときにじぶんの夢を生きていたのだと知った。






この数年でじぶんを愛することに向き合ったときに
それまでの誰かのために尽くすじぶんや大切な人のチカラになりたい。
というじぶんを知らぬ間にどこか否定してしまっていたじぶんに気がついた。


その想いは誰かを愛する大切なわたしのなかの気持ち。
その気持ちさえも一緒に否定してどこかに置き去りにしてきてしまっていたのかもしれない。


あのとき、誰かに愛を伝えたかったことは
誰よりも何よりもじぶんじしんが求めていたことで
それをじぶんではない誰かに向けようとしていた。


そのあたたかな想いを、まずはじぶんじしんへ向けてあげたこの数年間。


そんなじぶんを愛する今のわたしと、誰かを想うあのときのわたし。
どちらのじぶんもハナマルをつけてあげてもう一度じぶんじしんへと結べたときに、
もっともっとじぶんへと還っていくのだとおもう。

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*あのとき誰かを思ってじぶんを省りみず進み続けたじぶん。*と
一度捨ててしまった*ゆめ*。



ニュージーランドへ行く理由。
それは、あのトキのじぶんじしんのカケラと一度捨ててしまったゆめを拾いにいく旅だった。




じぶんの物語を紡ぎに、
そしてあのトキ…2011年3月11日からはじまった
わたしの物語を結び、新たな章がはじまる。


いってきますー!